北京パラリンピックまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 23:41 UTC 版)
大阪市に生まれ、小学生の時に父親の仕事の都合で大分県大分郡庄内町に移り住む。 大分県別府市にある明豊高等学校在学中に、ソフトテニスの選手として全国高等学校総合体育大会(インターハイ)及び国民体育大会に出場。2004年3月に高校を卒業した後は社会人として働いていたが、2008年に地元で開催されるチャレンジ!おおいた国体が開催されることを知り、大会出場を目指し、2006年にソフトテニス競技に復帰。 2006年9月に、仕事中の事故で右足の膝から下を切断。事故後に義足でソフトテニスを続けることを断念し、陸上競技に転向。2007年3月に義肢装具士の臼井二美男と出会い、臼井作成の義足を借用して出場した同2007年10月のジャパンパラリンピック陸上競技大会において、早くも100m走、200m走で日本記録を樹立。2008年3月の九州チャレンジ大会で北京パラリンピックのA標準記録を突破し、2008年北京パラリンピック日本代表となる。 北京パラリンピックでは、100mで6位入賞、200mで4位入賞の成績を残した。
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