加害ライオン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 08:23 UTC 版)
「ツァボの人食いライオン」の記事における「加害ライオン」の解説
2頭のライオンは、たてがみを欠いた若いオスのライオンであった。オスのライオンがペアを組んで行動する場合は、たいてい血縁関係が存在する。遺伝的形質の類似点からも、2頭は同腹の兄弟であると推定されている。ライオンは幼児期の死亡率が非常に高い動物であり、同じ場所で行動していたことからも兄弟である可能性は高い。なお、この2頭に限らず、ツァボに生息するライオンはオスでもたてがみがないか、あっても非常に短いのが特徴である。ツァボはアフリカの中でも特に気温が高い地域であり、ツァボに生息するライオン達は過酷な暑さから身を守るためにたてがみを退化させる必要があったものと考えられている。 この2頭がいつ頃から人間を捕食し始めたかについて、正確なことは不明である。ツァボにいたアフリカスイギュウなどの草食獣が減少し、多くのライオンは獲物を探して他の地域に移動した後にも、2頭はこの地に残っていた。最初はハゲワシやハイエナが貪るだけであった病に斃れた人間の死体を、2頭が食料とするまでには特段の障害も抵抗もなかったと考えられている。 2頭の剥製は、シカゴにあるフィールド自然史博物館に所蔵されている。『ライオンはなぜ「人喰い」になったか』の著者である小原秀雄が「あまり巧みな剥製とはいえない」と評するほど、不出来なものである。この2頭が剥製として展示されたのは、射殺から25年以上が経過した1925年のことだった。パターソンは1924年に毛皮となったライオン2頭をフィールド自然史博物館に5000ドルで売却し、この値段は2007年9月時点で換算すれば、6万ドル(約690万円)に相当するという。この毛皮は、博物館の館長スタンリー・フィールドが所蔵していた。毛皮はパターソンが長期にわたって敷物に使っていた状態だったため、剥製にするのはかなり困難を伴い、展示まで時間がかかったという。 事件から100年後、人間を襲うようになった理由を調べるために2頭はフィールド自然史博物館の科学者たちによって詳細な調査を受けた。その結果、2頭はパターソンが記述していたとおり年齢が若く、健康障害などの所見もなかったため、老齢や病気などの理由で狩りが難しくなったために人間を襲ったという説は否定された。研究にあたった科学者の1人、ジュリアン・カービス・ピーターハンズは「条件さえそろえば、どのライオンでも人間を攻撃する能力をもっているのだから」と、アフリカではライオンによる被害で毎年たくさんの人が殺されているはずだと指摘している。 スティーブンソン・ハミルトンの調査によれば、南アフリカで射殺した6頭の人食いライオンの内訳は老衰したオス2、ひどくやせた若いメス1、普通の体調の若いメス2、そして若い健康なオス1であった。グッギイズベルグが人食いライオン52例を調査したところ、老獣はわずかに10例のみで、残り42例は盛りの個体か若い個体であったことを報告している。人食いライオンの事例研究では、獲物が少なくて飢えたために人間をやむなく襲撃したものは11.3パーセントであった。人間を襲って食べることが習慣となったライオンの群れでは、「人食い」の性癖が伝承されるといい、実際に子ライオンを含む群れのすべてが「人食い」となった事例がある。ただし、小原は『ライオンはなぜ「人喰い」になったか』の中で「ライオンの非行化は、人間社会での殺人犯などと同様に、特定の条件下に起こるのであって、ごくふつうの何万、何十万のライオンのうちの、ごく一部であることを強調しておきたい」と記述している。 2007年になって、ケニア政府は2頭の剥製の返還をフィールド自然史博物館に要求したが、博物館側はこれを拒否した。ケニア政府は、引き続き2頭の返還を博物館側に要求し続けている。
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