前衛アートの中心人物に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 21:41 UTC 版)
「ジョナス・メカス」の記事における「前衛アートの中心人物に」の解説
メカスは60年代初め、二つの事件をきっかけに米国社会で大きな注目を集めるようになる。 一つは1963年5月に劇場「リビング・シアター」で起きた事件で、ここで上演されていた前衛的な演目を不満に思った劇場主が上演期間中に劇場を閉鎖、反発したダンサーが封鎖を破って上演を強行し逮捕されたという事件である。メカスは封鎖された劇場で観客がないまま上演された舞台を撮影して映画『営倉 (The Brig) 』にまとめ、これが同年のヴェニス映画祭ドキュメンタリー部門で大賞を受賞するのである。 二つ目は翌1964年におきたジャック・スミスの映画『燃え上がる生物 (Flaming Creatures) 』上映禁止事件である。メカスはこの作品を絶賛し、みずから映画館を探して上映にこぎつけるが、この作品には当時としては異例の性的な表現が含まれていたため、上映会場でメカスが他の関係者とともに逮捕される。ほぼ同時期、ジャン・ジュネの『愛の歌 (Un Chant d'amour) 』上映でも同様に逮捕されている。メカスの逮捕騒動は一般メディアでも広く報道され、表現の自由と検閲の合理性をめぐって大きな議論を呼んだ。 二つの事件はアヴァンギャルド作品を守り、上映場所を独自に確保することの必要性を作家たちに再確認させることとなった。メカスは、1970年に自らも映画作家であるジェローム・ヒルの資金援助を得て「アンソロジー・フィルム・アーカイブス (Anthology Film Archives) 」の活動を開始する。これは「エッセンシャル・シネマ (Essential Cinema) 」と銘打って世界の重要な映画をリストアップし、独自にフィルムを修復・保存する活動で、アヴァンギャルド映画を自由に上映するための映画館も確保した(何度か移転したのち1988年から現在の場所、マンハッタン南部のイースト・イレッジで活動)。 こうした活動を通じてメカスは前衛アート界の著名人となり、アンディ・ウォーホルやアレン・ギンズバーグ、フルクサスのジョージ・マチューナスなどのアーティストとの交流がつねに注目を集めるようになった。2007年、母国リトアニアで「メカス芸術センター」設立。2013年には「アメリカ芸術科学アカデミー」勲章を受賞している。 メカスの最も長い作品は2000年に公開した映画『私は前に進んでいるときわずかに美しさのかけらを見ることがあった(As I Was Moving Ahead Occasionally I Saw Brief Glimpses of Beauty)』で、過去30年間におよぶ身辺記録をもとにしている。 これがメカス最後の16ミリ作品となり、以後メカスはビデオカメラやスマートフォンなど様々な新しい装置を使いながら最晩年になるまで身辺の映像を記録しつづけた。このほか『ウォールデン』(1969)、『ロストロストロスト/何もかも失われて』(1976)や、母国への帰郷を記録した『リトアニアへの旅の追憶』(1972)などが高く評価されている。 2019年1月23日にニューヨークで死去した。享年96。
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