前田航研において
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島本真は14歳(1938年)から美津濃グライダー製作所に入社し、滑空機の製造や滑空機操縦訓練に励んでいたが。1941年になり美津濃を円満退社後に、前田航研の傘下、系列となった乾滑空機工業 (株) からの派遣実習生として、乾社長実弟乾五三朗、乾社長夫人の実弟中村忠夫、ら3名で、当時、福岡の六本松にあった前田航研作業場で、近所の民家に合宿生活をしながら技術習得に携わる事となった。前田航研では、ク - 1型軍用滑空機が作られていた。1941年9月1日、島本真は、陸軍大刀洗飛行場で、ク - 1型軍用滑空機の、初めての試験飛行が行われるのを目撃した。その時真は、前田航研の社員として、機体の組み立てを行い、テスト飛行に技術的にも貢献した。テスト機は、ク - 1グライダー(二式小型輸送滑空機)で、操縦は田中丸治広滑空士だった。初飛行が九五式一型練習機による、飛行機曳行で行われ、昇降舵の接続間違いのトラブルがあったが、修理後順調にテストを続け一週間のテストの後、陸軍への領収の運びとなった。島本真の証言ではク - 1は多座の大型グライダーで座席数は6座であった。 前田航研は、佐藤博九州帝国大学工学部教授の指導、監修に加え優れた滑空機設計を得て、日本の滑空機メーカーとして日本のトップクラスの存在だった。1941年2月に、前田航研が社をあげて支援して滑空機滞空日本新記録を樹立した河辺忠夫に出会う機会は多くあったが、河辺滑空士が滑空機滞空日本記録を達成した時はまだ美津濃所属であり数ヶ月の差で、河辺の記録挑戦に参加することは出来なかった。この後、作業中の手の負傷により、前田航研を退社して帰阪する。 前田航研で実習中に関わった滑空機 前田式703型ガル翼、河辺忠夫の日本記録達成機の翼端を支える真 前田式703型A-1605満州航空へ送り出しの機体前で記念撮影の島本敬一 真が初飛行機の組み立てに参加した軍用大型滑空機「ク - 1」
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