前田綱紀と尊経閣文庫
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古書籍を中心とした前田家の収集の基礎を築いたのは、加賀藩5代藩主の前田綱紀(1643 - 1724)であった。「尊経閣」の名称は、綱紀が自らの収集を「尊経閣蔵書」と称したことによる。3歳で家督を継ぎ、80年近く藩主の地位にあった綱紀は名君と評され、学問、文芸の振興に力を入れた。金沢市に残る日本三名園の一つ「兼六園」も綱紀の時代に造営されたものである。綱紀は豊富な財力をもとに多くの貴重書を収集した。また、京都の東寺に伝来した「東寺百合文書」(とうじひゃくごうもんじょ、現・京都府立総合資料館蔵)の歴史的価値を認め、家臣に命じて文書目録を作成し、また、分類保管のための文書箱100合を東寺に寄進した。「東寺百合文書」がほぼ完全な形で現代に伝わっているのは綱紀の尽力による部分が大きい。彼はまた、工芸技術の育成にも努め、各種伝統工芸の意匠、技法などの実物見本や雛型を集成し、分類整理して箱に収めた「百工比照」という資料を残した。几帳面な性格であったといわれる前田綱紀は、古書の収集に当たっても、自分の個人的趣味によってではなく、学術的、資料的に価値の高いものを系統的に集めた。以上のことから、彼は日本の文化財保護の先駆者といえよう。 前田育徳会の所蔵品には、綱紀の収集品のほか、初代藩主前田利家の妻・芳春院(まつ)や、3代藩主前田利常の収集にかかるものも含まれている。芳春院は、人質として徳川家康のもとにいた時代に、多くの道具類(現代でいう古美術品)を購入したといわれる。前田家は、財力の点では他藩を圧していたが、外様大名であったため、徳川家とは常に緊張関係にあった。前田家が学問、文芸の振興に熱心であったのは、徳川家に対する謀反を起こす考えのないことを明らかにするために、武力ではなく、学問、文芸に財力を注いでいるということをアピールするねらいがあったともいわれている。
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