分析された零戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 08:40 UTC 版)
鹵獲したゼロからのデータは、米国海軍航空局(英語版)とグラマン社に送信された。慎重な研究の結果、技術者で起業家のロイ・グラマンは、防弾鋼板、防漏式燃料タンク、胴体構造を犠牲にせずに、航続距離を除いてほとんどの点でゼロに匹敵するかそれを上回る戦闘機を作ることができると判断した。新型のF6Fヘルキャットは、馬力を増して重量の増分を補っている。 鹵獲から3か月後の1942年9月20日、エディー・R・サンダース少佐は、アクタン・ゼロのテスト飛行を開始した。彼は10月15日までの間に24回のテストを行った。サンダースは以下の所見を述べている: これらの飛行では、我々が海軍試験で航空機に対して実施しているような性能テストを行った。最初の飛行で、我々が適切な戦術によればつけ込めるゼロの弱点が明らかになった。すぐに分かったのは、速度が200ノット(時速約370km)を越えるとエルロンが重くなり、そのためその速度でのローリング機動が遅く、操縦桿の操作に大きな力が必要だということだった。左へのロールの方が右よりやりやすかった。また、フロート式キャブレターのせいで、マイナスGがかかるとエンジンが停止した。我々は今、ゼロに後ろを取られ、逃げることのできないパイロット達のための答えを得た。(操縦桿を前に倒し)マイナスGをかけて垂直急降下し、できればゼロのエンジンが停止している隙に距離を開ける。200ノットくらいで、ゼロのパイロットが照準を合わせる前に右に激しくロールする。 —Jim Rearden、Koga's Zero, 1995, p. 73. 後のテスト飛行では、海軍支援施設アナコスティア(英語版)の飛行テスト責任者、フレデリック・M. トラップネル(英語版)が零戦を飛ばし、サンダースが米軍機で同時に同一の機動をして行われた。この後、メルヴィル・“ブーギー”・ホフマンがさらに格闘戦のテストを実施した。 海軍によるテストの後、零戦は海軍航空基地ノースランドから海軍支援施設アナコスティアへ送られた。1944年、機体は太平洋戦線へ向かうパイロットの練習機として再びノースランドへ送られた。グアムの戦いで零戦五二型が鹵獲され、後にこれも使用された。 これらテストのデータおよびその結果は、『Informational Intelligence Summary 59』、『Technical Aviation Intelligence Brief #3』、『Tactical and Technical Trends #5』(最初のテスト飛行の前に公表された)、および『Informational Intelligence Summary 85』で公表された。これらは、零戦の能力を若干低く評価する傾向にある。
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