分村問題
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昭和の大合併では、当初多治見市との全村合併が計画されていた。しかし、村の北部地域が反発。また、村議会内でも合併賛成派と反対派が対立、村長選挙の結果、賛成派村長と反対派村長に交代するといったことで混乱してしまったという。 最終的には自治庁、県の斡旋などもあり、南北分村となった。
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分村問題
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「川合村 (岐阜県揖斐郡)」の記事における「分村問題」の解説
川合村は当初、豊木村、西郡村、富秋村と同じ年(1954年)に大野町との合併を考えていたが、川合村の南部の地区(本庄、下座倉、西座倉)の住民は、神戸町との合併を強く望み、岐阜県に具申する。岐阜県はその申請を却下するが、住民の運動は激しくなる一方であった。1956年(昭和31年)には、この3地区の小学生を全員、川合小学校から神戸町立神戸小学校に転校させるという強硬手段も発生している。 1957年(昭和32年)、岐阜県と川合村は、この3地区の住民を対象にし、分村の賛否を住民投票によって決定することとする。結果は分村賛成が過半数以上となるが、法定得票数に満たなかったため、実質分村は否決される。 1959年(昭和34年)、住民と村との話し合いで事態は収拾される。そのさい、西座倉地区は1957年の住民投票では全員が分村賛成であったことから、「近い将来、西座倉地区を分離し、神戸町に編入する。」という条件を入れて、川合村は大野町への編入が決定される。 この条件により、西座倉地区は川合村が大野町に編入から3ヶ月後に分離。神戸町に編入されることとなる。 「西座倉地区と神戸町とを結ぶ揖斐川の橋を建設する」ということは、このさいに決められていたことという。編入から30年後の神戸大橋開通により、実現されている。
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