再びクールラント、そしてイギリス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 14:10 UTC 版)
「マリー・テレーズ・シャルロット・ド・フランス」の記事における「再びクールラント、そしてイギリス」の解説
1805年4月、亡命宮廷は再びミタウに戻った。ナポレオン軍によるプロイセンとロシアの攻撃が始まると、マリー・テレーズとエッジワース神父はミタウの負傷兵を看護した。看護中に腸チフスに感染した神父は5月22日に病死し、マリー・テレーズは悲しみに襲われた。ミタウを訪れたアレクサンドル1世は、間もなくロシア帝国がナポレオン軍に敗北すること、ヨーロッパ大陸にブルボン家の安住地はなく、スウェーデン国王グスタフ4世が避難場所を用意すると知らせた。8月、グスタフ4世が用意したフリゲート艦トロイア号に乗り、ルイ18世とアングレーム公は妻たちを残してストックホルムへ旅立った。グスタフ4世の手厚いもてなしを受けていた2人だったが、迎えに来たアングレーム公の弟ベリー公に伴われて突然とイギリスへ向かった。 イギリス国王ジョージ3世は、スコットランドのエディンバラに向かう条件つきで下船許可を出したが、バッキンガム侯爵 (en) の仲介を受けて、フランス亡命宮廷の定住地はロンドン北東部のゴスフィールド・フォールに決まった。1808年8月、マリー・テレーズはルイ18世の妃マリー・ジョゼフィーヌと当地に到着した。翌1809年4月、フランス亡命宮廷はバッキンガムシャーのハートウェル・ハウスを年500ポンドでバッキンガム侯爵から借りあげると移転した。マリー・テレーズは田園地域の城で、夫や親族と廷臣に囲まれ暮らした。義父アルトワ伯はロンドンの館に暮らし、アングレーム公夫妻を社交の場に招き楽しませた。イギリスの人々もフランス亡命宮廷に優しく接した。 1810年3月11日、マリー・テレーズがウィーン宮廷時代に可愛がっていたマリア・ルイーゼがナポレオンに嫁いだという知らせに、ルイ18世もマリー・テレーズも衝撃を受けた。フランス亡命宮廷にはフェルセン伯爵殺害、プロイセン王妃ルイーズの病死と悪い知らせが続き、マリー・テレーズは落ち込んだ。1812年2月、王太子(後のジョージ4世)は認知症を患ったジョージ3世の摂政となると、亡命中のフランス王室と廷臣たちに安全な場を提供し続けると約束して多額の手当を出し、フランス亡命貴族にも愛を持って接して盛大なパーティを催しては楽しませた。舞踏会の際、王太子の右隣という栄誉ある席にマリー・テレーズを座らせた。彼女はもちろん、王太子を気に入った。 1813年1月、マリー・テレーズは結婚13年目にして懐妊し、王室は喜びに包まれる。しかし、妊娠がかなり進んだ時期に流産してしまう。その後、妊娠することはなかった。
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