八宗体制論の影響
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1969年に初めて提唱された八宗体制論は、法然より始まる鎌倉新仏教の成立を、それ以前の貴族的・祈祷的な鎮護国家的な古代仏教に対し、個人の救済を主眼とする民衆仏教の成立すなわち中世仏教の成立として把握する家永三郎・井上光貞らによって唱えられた知見をベースとしており、1970年代以降の日本仏教史研究に影響をあたえた。すなわち、家永・井上の見解は、法然・親鸞・栄西・道元・日蓮・一遍によってはじめられた6宗を「鎌倉新仏教」とし、ここでは、選択・専修・易行(反戒律)・在家主義・悪人往生などを特徴として、広く新興武士層や庶民などに対し信仰の門戸が開かれ、階層や身分を超越したあらゆる人びとの救済が掲げられたことが重視されており、多数の研究者の圧倒的な支持を得て定説化されたのであった。 ただし、田村説は、それまで混乱と分裂のイメージでとらえられがちであったいわゆる「旧仏教」の側にも、共通の利害に由来した一定の秩序があったことを指摘した点が従来説とは異なっており、これはやがて次期の鎌倉仏教研究にあって大きな課題として浮上していった。すなわち、中世社会において伝統仏教がたがいに共存する体制をどうとらえるかが問題となったのであり、こうしたなか、黒田俊雄は1975年(昭和50年)、『日本中世の国家と宗教』などにおいて、鎌倉時代にあっても南都六宗や天台宗・真言宗の旧仏教は「顕密主義」という共通の基盤を有しており、むしろ旧仏教の方こそが主流であったという「顕密体制論」を唱え、これら主流派の寺社勢力に対する異端として法然・親鸞・日蓮・道元らを位置づけ、いっぽう、高弁や叡尊らを改革者と位置づけた。ここでは、従来、古代的とのみ見なされてきた仏教勢力が封建領主の一形態として中世的な変化を遂げていく様態が重視される。かつて鎌倉新仏教によって克服されるべき古代的秩序とみなされた「八宗体制」は、日本中世史研究の新たな蓄積をふまえた黒田によって換骨奪胎され、「顕密体制論」として再構築された。そして、田村によって「八宗」と総称され、新仏教によって克服の対象とされた伝統仏教の側こそがむしろ中世における正統仏教とされたのである。
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