八宗体制論の影響とは? わかりやすく解説

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八宗体制論の影響

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 21:52 UTC 版)

八宗体制論」の記事における「八宗体制論の影響」の解説

1969年初め提唱され八宗体制論は、法然より始まる鎌倉新仏教成立を、それ以前貴族的祈祷的な鎮護国家的な古代仏教対し個人救済主眼とする民衆仏教成立すなわち中世仏教成立として把握する家永三郎井上光貞らによって唱えられ知見ベースとしており、1970年代以降日本仏教史研究影響あたえた。すなわち、家永・井上の見解は、法然親鸞栄西道元日蓮一遍によってはじめられた6宗を「鎌倉新仏教」とし、ここでは、選択専修易行(反戒律)・在家主義悪人往生などを特徴として、広く新興武士層や庶民などに対し信仰門戸開かれ階層身分超越したあらゆる人びと救済掲げられたことが重視されており、多数研究者圧倒的な支持得て定説化されたのであった。 ただし、田村説は、それまで混乱分裂イメージとらえられがちであったいわゆる「旧仏教」の側にも、共通の利害由来した一定の秩序があったことを指摘した点が従来説とは異なっており、これはやがて次期鎌倉仏教研究にあって大きな課題として浮上していった。すなわち、中世社会において伝統仏教たがいに共存する体制をどうとらえるかが問題となったのであり、こうしたなか、黒田俊雄1975年昭和50年)、『日本中世国家宗教』などにおいて、鎌倉時代にあって南都六宗天台宗真言宗の旧仏教は「顕密主義」という共通の基盤有しており、むしろ旧仏教の方こそが主流であったという「顕密体制論」を唱え、これら主流派寺社勢力対す異端として法然親鸞日蓮道元らを位置づけいっぽう高弁叡尊らを改革者位置づけた。ここでは、従来古代的とのみ見なされてきた仏教勢力封建領主の一形態として中世的な変化遂げていく様態重視される。かつて鎌倉新仏教によって克服されるべき古代的秩序みなされた「八宗体制」は、日本中世史研究新たな蓄積ふまえた黒田によって換骨奪胎され、「顕密体制論」として再構築された。そして、田村によって「八宗」と総称され新仏教によって克服対象とされた伝統仏教の側こそがむしろ中世における正統仏教とされたのである

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