入諏神話について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 12:55 UTC 版)
諏訪に伝わる入諏神話は、諏訪上社の神長官を務めてきた守矢氏が外来侵入勢力(後の神氏)に降伏して統治権を委譲した出来事に基づいていると考えられている。 諏訪にやって来た神氏を稲作技術をもたらした出雲系民族(弥生人)とする説や、金刺氏(科野国造家、後に諏訪下社の社家)の分家、または大神氏(三輪氏)の一派あるいは同族とする説がある(詳細は後述)。前者の場合は入諏神話を縄文時代と弥生時代の変わり目、後者の場合は弥生時代または古墳時代に起こった出来事に基づいていると解される。 古墳時代中期(5世紀前半)に守屋山の麓(上社本宮の近く)にはフネ古墳が築造された。千曲川中流域や伊那谷の古墳群(この内千曲川中流域の埴科古墳群は科野国造勢力のものと思われる)とは異なり竪穴式墳墓や土器を特徴としているため、諏訪と上伊那地方を支配する強大な豪族によって作られたものと考えられている。また、この古墳から出土した蛇行剣と鹿角製品は諏訪上社の龍蛇信仰や狩猟儀礼と関係があると考えられている。フネ古墳より少し後に諏訪湖周辺に同じタイプの古墳が築造されるが、6世紀後半に下伊那の横穴式古墳文化(馬具の副葬品が特徴)が諏訪にも見られるようになり、在地型の墳墓に取って代わる。このことから、伊那谷から諏訪への馬飼集団の移動があったと推測される。 この移動した部族を金刺氏とする説はあるが、伊那谷の古墳は一つの様式で占められず、いろんなタイプがあるという指摘もある。つまり、伊那谷には一つの氏族ではなく、文化の異なるいくつかの集団(畿内の豪族とそれに結び付いた在地勢力)が存在したとも考えられる。この中に、神氏となる氏族がいたのかもしれないのである。ただしこの時期に畿内より豪族が移遷したとする文献は存在せず、また在地豪族として阿智祝部氏が見られる。一説では、伊那谷から進出した神氏(=ミワ氏)は『和名抄』では「美和郷」といわれていた上伊那を一旦本拠とし、そこから天竜川を遡って現在の岡谷市から諏訪盆地に入った。一方で天竜川側から進入したとする主張は同意見でありながらも、神氏の諏訪入りは神武東征によって磯城県主・大神氏系のタケミナカタや伊豆速雄命が大和から敗走した弥生時代の頃とする説もある。実際に記紀から想定されるタケミナカタの逃走経路上に、龍蛇信仰を持つ海神族の祭器であった銅鐸が多数分布し、塩尻市からも三遠式銅鐸が出土している。また長野市三輪の地に式内美和神社を祀り、諏訪大社上社北方の大和(大輪)が諏訪郡美和郷と呼ばれ、上伊那郡辰野町にも三輪神社が鎮座し、更に諏訪大社に鉄鐸が伝わっていることに注目される。 入諏神話をもとに守矢氏を土着の勢力集団と考えるのが一般的だが、外部から流入してきたという説もある。物部守屋の次男が丁未の乱(587年)の後に守屋山に忍んで、のちに守矢氏に養子入りしたという伝承があり、守屋山の南麓(伊那市高遠町藤澤区片倉)にある守屋神社の膝元には物部守屋の子孫と名乗る家が多く存在することから、守矢氏を物部氏の支流、あるいは物部氏と親近関係にあった在地勢力としてみる説がある。ただし、守矢氏を神氏よりも前に諏訪の先住部族を征服して、物部守屋の末裔と名乗る勢力とは無関係かつ対立的でありながらその伝承を半ば意図的に利用した氏族とする見方もある。
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