候補者擁立の経緯
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「2007年愛知県知事選挙」の記事における「候補者擁立の経緯」の解説
2006年(平成18年)4月中旬、自民党愛知県連会長代理の寺西学と公明党愛知県議団団長の鬼頭栄一らが会談し、愛知県知事の神田真秋の三選に向けた支持を取り付け、擁立に向けて動き出した。5月29日には、神田が副知事2人とともに寺西と会食した。会食では、県議が神田に自民党の中長期政策プラン『夢あいち21』の支持を条件に次期選挙の協力を申し出たが、神田は明言を避けた。寺西には、公明を固めることで県議会における主導権を握り、党内の水面下で進んでいた2005年日本国際博覧会協会事務総長の中村利雄や総務省官房審議官の御園慎一郎らを推す声を封じる目的があった。6月2日、神田は『夢あいち21』の実現検討を明言し出馬に意欲を示した。民主党は党本部の「相乗り原則禁止」の方針を受け、前回・前々回の選挙で支持した神田の推薦を白紙検討していることが伝えられた。一方、自民党愛知県連幹部は「与党、民主、公明と話し合った上で推薦を決めたい」として、相乗りに前向きな様子が伝えられた。 6月15日に名古屋入りした民主党の衆議院議員鳩山由紀夫は、記者会見で県連の相乗りに向けた動きをけん制した。6月9日、民主党は片桐清高県議団団長を団長とする神田県政を検証するチームを立ち上げた。また、7月2日の滋賀県知事選挙で自民・民主が相乗りした現職の國松善次を破り、社民推薦の嘉田由紀子が当選したことから、民主党内で独自候補擁立論が強まった。7月6日、民主党の検討チームは神田県政に対する評価を出し、「愛知のトップリーダーとしては独自のビジョンや政治的指導力に物足りなさを感じる」として、独自候補擁立に向けて動き出した。 8月4日、自民党は神田の擁立を決定した。一方の民主党では、求めるリーダー像に「強力な政治的指導力の発揮」を盛り込み、8月10日に片桐が独自候補の擁立を表明した。8月26日、民主党は近藤昭一愛知県連会長を会長とする選考委員会を設置し、独立候補擁立に向けて動き出した。同日夜に行われた第1回会合では、十数人の名前が候補として挙がったが、選考メンバーが中日新聞の取材に対して犬山市長の石田芳弘と総務省官房審議官の御園慎一郎の2人に絞り込まれていると話した。9月1日、元県議と石田が会談し、元県議側から「代表(小沢一郎民主党代表)は『候補者を一人に絞れ』と言っている」と打ち明けられ、出馬辞退を申し入れられた。9月4日、石田は片桐団長に電話し、民主党の推薦がなくても出馬すると伝え、翌日に犬山市役所で会見を開いて出馬を表明した。9月12日、県連は候補を石田に一本化し、同日午後、近藤県連会長が小沢代表に報告した。9月16日、民主党は正式に石田の擁立を決定した。9月21日、石田と民主党が正式に合意書を交わし、名古屋市内のホテルで正式に出馬表明がされた。一方、神田も9月22日の県議会で小林功議員(自民党)の質問に答える形で、正式に出馬を表明した。 神田と石田の一騎討ちの情勢になったことから、共産党などから構成される「革新県政の会」は石田との連携を模索し始めた。しかし、近藤民主党県連会長が「党の立場として共闘はありえない」として、連携を拒否した。石田側もこれに従って革新県政の会とは協議をせず、正式な連携ではなく勝手連的な応援を求めた。これを受けて、革新県政の会は11月30日に愛知県労働組合総連合労働相談センター所長の阿部精六の擁立を内定し、12月4日に正式に決定した。
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