信長の死・柴田勝家への協力
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「足利義昭」の記事における「信長の死・柴田勝家への協力」の解説
6月2日、信長が京の本能寺において、息子の信忠とともに明智光秀に討たれた(本能寺の変)。秀吉の救援のため、信長自らが支援のために備中に赴こうと、本能寺に滞在していた矢先の出来事であった。この情報を得た秀吉は、信長の横死を秘したまま、毛利氏と講和を行った。 6月4日、備中高松城は講和により開城し、城主の清水宗治らは切腹した。秀吉はその日のうちに撤退し、毛利方が本能寺の変報を入手したのはその翌日の5日であった。 6月9日、信長の死を知った義昭は隆景に対し、帰京するために備前・播磨に出兵するように命じたが、輝元は講和を遵守して動かなかった。毛利氏は上方の情報収集は行ったが、領国の動揺を鎮めることで精いっぱいであり、進攻する余裕はなかった。 6月13日、秀吉が山崎の戦いで光秀を破ると、輝元は秀吉に戦勝を祝うため、安国寺恵瓊を使者として派遣した。 9月26日、義昭は安国寺恵瓊に対し、羽柴秀吉に自身の帰洛を斡旋させるように命じた。秀吉もこれに承知の意思を示した。 10月15日、秀吉は大徳寺で信長の葬儀を行い、後継者としての地位を確立した。そのため、秀吉と柴田勝家が覇権を巡って火花を散らし始めると、輝元は双方から味方になるよう誘いかけられた。 11月、義昭は勝家に味方し、勝家もこれを承知した。義昭はまた、勝家と上杉景勝を講和させ、協力させるため、11月21日に景勝に御内書を下した。 天正11年(1583年)2月13日、勝家は北近江に進出するための援助を、毛利氏に求めた。また、同月には徳川家康が義昭の帰洛に関して、輝元に賛意を表した。 3月14日、勝家は義昭を擁立したうえで、毛利氏の支援を受けて、秀吉を挟撃しようとした。そのため、勝家は義昭に輝元の出兵を督促させた。 4月5日、義昭は輝元と勝家に対し、勝家の先鋒が近江に進出したことと知らせるとともに、すぐに出兵するように命じた。 4月20日、元春と隆景が会見した結果、毛利氏は両者の勝敗を見てからと傍観することにし、義昭の要請には応じないことにした。 4月21日、秀吉が賤ヶ岳の戦いで勝家に勝利し、勝家を自害に追いやった。秀吉は勝家の最期を輝元に伝えるとともに、東国の北条氏政や北国の上杉景勝を攻めると伝え、輝元に協力するように伝えた。すでに秀吉と輝元の間には及び難い力の差がついていたが、義昭は勝家に味方したため、秀吉を敵に回すという結果を招いた。 天正13年(1585年)1月、輝元が秀吉との国境画定に応じて、正式に講和し、天正4年から続いた毛利氏と織豊政権の戦闘はようやく終結した(京芸和睦)。
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