作戦命令の発出
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1945年(昭和20年)8月3日、それまで鹿屋基地にいた宇垣は、第五航空艦隊の幕僚と共に大分基地に移転した。 8月11日、宇垣は七〇一海軍航空隊の佐藤大尉に艦上爆撃機「彗星」の稼動機数を尋ね、11機という返答を得た際に「5機もあれば」とつぶやいた。 8月14日の深夜(23時37分)、海軍総司令長官・小沢治三郎中将(兵37期)より、「対ソ」「対沖縄」の積極攻撃を中止する命令が発せられた。 8月15日に日付が変わった頃、宇垣は「彗星」5機で沖縄方面の敵艦船を攻撃するよう、第五航空艦隊司令部の当直参謀であった作戦参謀・田中正臣少佐(兵59期)に命じた。長官自らが特攻するつもりではないか、と直感した田中作戦参謀から報告を受けた第五航空艦隊先任参謀・宮崎隆大佐(兵52期)が宇垣に真意を尋ねると、宇垣は下記のように答えた。 「俺が乗って行くのだ。すぐに攻撃準備を整えてくれたまえ。」 宮崎先任参謀は宇垣に再考を求めたが、宇垣は肯んじなかった。宮崎先任参謀によると、宇垣は「普段は見せない穏やかな表情」だったという。 第十二航空戦隊司令官・城島高次少将(兵40期同期生)、第五航空艦隊参謀長・横井俊之少将(兵46期)の2名が駆けつけ、「死を決せられる気持ちは理解できるが、戦後処理や、国家的な責任の問題もあるため、なんとかとりやめることはできないか」などと繰り返し翻意を促したが、宇垣は 「正式な停戦命令は受けていない。戦闘はなお継続中である。」 「武人として、俺に死場所を与えてくれ。必勝を信じて喜んで死んで行った多数の部下のもとへ、俺もやらせてくれ。」 と、その決意は揺らぐことはなかった。 8月15日の夜が明けた後、宇垣の意志が固いと判断した宮崎先任参謀は、作戦命令を起案・発出した。 七〇一空大分派遣隊は、艦爆五機を以って沖縄敵艦隊を攻撃すへし。本職これを直率す。 — 第五航空艦隊司令長官 海軍中将 宇垣纏、 正午、宇垣たちは大分基地の号令台に設置されたラジオの前に整列して玉音放送を聞いた。雑音が多く良く聞こえなかったが、戦争が終わったことは察することができた。 その後、宇垣は 「未だ停戦命令に接せず。多数殉忠の将士の跡を追ひ特攻の精神に生きんとするに於て考慮の余地なし」 「余又楠公精神を以て永久に尽くすところあるを期す。一六〇〇幕僚集合、別杯を待ちあり。之にて本戦藻録の頁を閉ず」 と、戦藻録の最後を記した。
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