作品の起源
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/01 01:17 UTC 版)
「The Black Crook」の記事における「作品の起源」の解説
1866年以前、ヘンリー・C・ジャレットとヘンリー・パーマーの2人は、ヨーロッパの目新しい演技をアメリカに輸入するという考えをもとに、協力関係を築いた。彼らはパリの夢幻劇(フェリ)La Bichi au bois やロンドンのアストリーズ野外劇場(英語版)のパントマイムを見て、そのショーの要素を彼らのアメリカでの作品に組み込みたいと考えていた。パリのショーのリードダンサーのうちの数人と契約し、ロンドンの作品から壮大な早変わりの場面を購入した彼らは、ニューヨーク音楽院で素晴らしい作品を作りたいと考えていたが、その夏に音楽院は焼け落ちてしまう。 一方、俳優のバラスは、自身と妻であるダンサーのサリー・セント・クレアが主役を演じてツアーを行うつもりで、The Black Crookというエクストラバガンザを書いた。彼はニューヨークでの初演を、1880年代としては異例の長さの100回公演を行う契約で、ニブロズ・ガーデンのマネージャーであるウィリアム・ウィートリー(英語版)と交渉した。バラスはニューヨークのバッファローで舞台装置や建物を造り始めた。 ジャレットとパーマーは、彼らの書き下ろしのショーをニブロズ・ガーデンで上演するためウィートリーに打診したが、バラスはすでに会場を予約していた。誰の発案だったのかは分からないが、バラスにはロイヤルティーとして定額が小額支払われウィートリーには手数料を払わなくてもよいという条件がつき、ジャレットとパーマーは事実上、ニューヨークで上演される The Black Crook のプロデューサーとなった。 ジャレットは、バラスのメロドラマから La Biche au bois のような音楽作品に変え、より多くのアイデア、装飾品、人物を集めるため、ヨーロッパに戻った。 彼は舞台装置、風景、衣装、財産、ダンサー、俳優などを集めて戻ってくる。プロデューサーたちはバラスの舞台装置や衣装のデザインを完全に取り替え、さらに台本の一部をカットして、ダンスやスペクタクルを増やした。 この作品は、かつてないほどの華麗さで上演され、衣装の露出の多さは論争を巻き起こし、かえって作品を盛り上げることとなった。
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