佐渡金山同心時代と家督継承
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「服部正重」の記事における「佐渡金山同心時代と家督継承」の解説
大久保長安に預かられた後、正重は長安の長女である美香を正室に迎える。これにより長安と正重、大久保家と服部半蔵家は縁戚関係を結ぶ事となった。 1604年(慶長8年)、義父である大久保長安が佐渡奉行に任命されると正重は金山同心として佐渡島湊(現在の両津市)に赴任し、長安と共に金山政策を行っていた。佐渡島で正重は服部伊豆守を名乗っていた。石見守を名乗らなかったのは、服部半蔵家の名乗り官位である事や、義父である大久保長安の官位が石見守であった等の理由も推察される。正重が佐渡で居住したのは両津湊の城山と呼ばれる場所であり、佐渡金山湊番所の裏山にあったという。湊番所は明治時代に税関となり、現在は新潟海上保安部佐渡海上保安署の旧庁舎(佐渡市両津湊)が建っている。敷地には両津港のシンボルであり推定樹齢300年以上のクロマツ「村雨の松(新潟県指定天然記念物)」が繁り、海上を航行する船の目印となっている。 湊番所に勤めた正重は役人としての執務にあたりながら多くの書物を書き残したという。夷町の正覚寺には服部家の菩提があり、また、正重の居宅について「佐渡年代記」慶長9年(1604年)の項に「服部半蔵の男子である服部伊豆は御側に奉仕したが故あって閉居し、この年、大久保石見守と共に佐渡へ来て夷町に住んだ」とある。正覚寺の隣に建つ勝廣寺の寺伝によれば、服部伊豆守の赴任に伴い寺地であった湊の城を譲渡し、改易により佐渡を退去する際にこの土地が返還されたという。これにより、正重は夷町と湊の双方に住居及び領地を有していたとみられる。 1605年冬(慶長9年12月)兄である正就が改易される。これにより正重は服部家の家督を継ぎ、服部石見守半蔵(四代目服部半蔵)を襲名したとみられる。家督を継いだ正確な時期は不明であるが、「大久保長安に預けられた後、上意により長吉から半蔵と名乗り、拝謁のため江戸を訪れた時、伊豆守となった」という記述があり、また佐渡島の両津湊周辺には「服部半蔵が金山同心を務め屋敷と領地があった」等の言い伝えが残る。 兄の正就が改易され掛川へ移った後の1606年(慶長10年2月)には徳川秀忠の上洛が行われ、供奉した家臣の中に鉄砲奉行として服部石見守半蔵の名が記されているが、改易となった正就の上洛供奉は考えにくい。桑名藩史には、正重が「秀忠公に仕え江戸から伏見まで奉仕した」との記述もみられるため、この上洛に「服部石見守半蔵」として従ったのは正就ではなく正重である可能性が存在する。これらの記述や佐渡での記録・言い伝えから、正重が家督を継承した時期は正就の改易及び蟄居の後である1606年(慶長10年)頃と推察される。なお、上洛に供奉した服部石見守半蔵の諱については現時点では判明しておらず、今後の研究がまたれる。 なお、服部家は伊賀衆・伊賀同心の頭領として一般に知られるが、兄である服部正就の改易により伊賀同心の支配の役目は解かれており、正重も佐渡へ赴任し義父の大久保長安と佐渡金山などの金山政策を担当していたため、江戸の伊賀同心の支配役にはならなかった。
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