佐渡金山同心時代と家督継承とは? わかりやすく解説

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佐渡金山同心時代と家督継承

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/18 02:53 UTC 版)

服部正重」の記事における「佐渡金山同心時代と家督継承」の解説

大久保長安に預かられた後、正重長安長女である美香正室迎える。これにより長安正重大久保家服部半蔵家縁戚関係を結ぶ事となった。 1604年慶長8年)、義父である大久保長安佐渡奉行任命される正重金山同心として佐渡島湊(現在の両津市)に赴任し長安と共に金山政策行っていた。佐渡島正重服部伊豆守名乗っていた。石見守を名乗らなかったのは、服部半蔵家名乗り官位である事や、義父である大久保長安官位石見守であった等の理由推察される。正重佐渡居住したのは両津湊城山呼ばれる場所であり、佐渡金山番所の裏にあったという。湊番所明治時代税関となり、現在は新潟海上保安部佐渡海上保安署の旧庁舎佐渡市両津湊)が建っている。敷地には両津港シンボルであり推定樹齢300年上のクロマツ村雨新潟県指定天然記念物)」が繁り海上航行する船の目印となっている。 湊番所勤めた正重役人としての執務にあたりながら多く書物書き残したという。夷町正覚寺には服部家菩提があり、また、正重居宅について「佐渡年代記慶長9年1604年)の項に「服部半蔵男子である服部伊豆御側奉仕したが故あって閉居し、この年大久保石見守と共に佐渡来て夷町住んだ」とある。正覚寺の隣に建つ勝廣寺寺伝によれば服部伊豆守赴任に伴い寺地であった湊の城を譲渡し改易により佐渡退去する際にこの土地返還されたという。これにより、正重夷町と湊の双方住居及び領地有していたとみられる1605年冬(慶長9年12月)兄である正就が改易される。これにより正重服部家家督継ぎ服部石見守半蔵四代目服部半蔵)を襲名したとみられる家督継いだ正確な時期不明であるが、「大久保長安預けられた後、上意により長吉から半蔵名乗り拝謁のため江戸訪れた時、伊豆守となった」という記述があり、また佐渡島両津湊周辺には「服部半蔵金山同心務め屋敷領地があった」等の言い伝えが残る。 兄の正就が改易され掛川移った後の1606年慶長10年2月)には徳川秀忠の上が行われ、供奉した家臣中に鉄砲奉行として服部石見守半蔵の名が記されているが、改易となった正就の上供奉考えにくい。桑名藩史には、正重が「秀忠公に仕え江戸から伏見まで奉仕した」との記述みられるため、この上洛に「服部石見守半蔵」として従ったのは正就ではなく正重である可能性存在する。これらの記述佐渡での記録言い伝えから、正重家督継承した時期は正就の改易及び蟄居後である1606年慶長10年)頃と推察される。なお、上洛供奉した服部石見守半蔵諱について現時点では判明しておらず、今後の研究がまたれる。 なお、服部家伊賀衆伊賀同心頭領として一般に知られるが、兄である服部正就改易により伊賀同心支配役目解かれており、正重佐渡赴任し義父大久保長安佐渡金山などの金山政策担当していたため、江戸伊賀同心支配役にはならなかった。

※この「佐渡金山同心時代と家督継承」の解説は、「服部正重」の解説の一部です。
「佐渡金山同心時代と家督継承」を含む「服部正重」の記事については、「服部正重」の概要を参照ください。

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