佐渡金山の水替人足とは? わかりやすく解説

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佐渡金山の水替人足

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/16 07:17 UTC 版)

水替人足」の記事における「佐渡金山の水替人足」の解説

当初水替人足募集により行われており通常の町方農民の者が中心であったまた、各国から石高に応じて在方から強制的に割り当てられてくる農民存在した極めて重労働であるため、それに見合った高い賃金支払われており、周辺の町は非常に潤ったとされるしかしながら坑道掘り進められるとともに労働環境過酷さ増し、また水替人足もより大人数が必要となったが、それに見合った応募者数が得られず、採鉱支障生じ始めたため、安永6年(1777年)から、組織的に無宿者佐渡金山水替人足として送られることとなり、翌年から使役始まった天明の大飢饉など、折から政情不安により発生した無宿者大量に江戸周辺流入し様々な凶悪な罪を犯すようになった。その予防対策として、懲罰としての意味合いや、将軍お膝元である江戸浄化のため、犯罪者予備軍なりえる無宿者捕らえて佐渡島佐渡金山送り、彼らを人足として使役しようとしたのである発案者勘定奉行石谷清昌(元佐渡奉行)。佐渡奉行治安悪化するといって反対したが、半ば強引に押し切る形で無宿者佐渡島送られることになり、毎年数十人が送られた。総数では、開始され1778年から幕末まで、1874人が送られたとの記録がある。 当地佐渡では遠島の刑を受けた流人いわゆる島流し」)と区別するため(佐渡への遠島元禄13年(1700年)に廃止されている)、水替人足は「島送り」と呼ばれた当初無宿者のみを佐渡送ったが、天明8年1788年)には敲(鞭打ち刑)や入墨の刑に処されたが身元保証人がいない者、さらに文化2年1805年)には人足寄場での行いが悪い者や追放刑受けて改悛する姿勢見えない者まで送られるようになった犯罪者更生という目的もあった(作業に応じて小遣銭が支給され改悛した者は釈放された。佃島石川島)の人足寄場おなじく囚徒一種の職を与えたから、改悟すれば些少貯蓄得て年を経て郷里帰ることを許された)が、水替過酷な重労働であり、3年以上は生存できないとまでいわれるほど酷使された。そのため逃亡する者が後を絶たず、犯罪者隔離施設としても、矯正施設としても十分な役割を果たすことが出来なかった。 島においてさらに犯罪のあったときは鉱穴に禁錮されたが、これは敷内追込といい、また島から逃亡した者は死罪であった

※この「佐渡金山の水替人足」の解説は、「水替人足」の解説の一部です。
「佐渡金山の水替人足」を含む「水替人足」の記事については、「水替人足」の概要を参照ください。

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