佐久間象山(1811-1864)
「横浜開港の父」、「人造磁ケツ器」の開発
佐久間象山は、幕末の兵学・洋学者で、信濃(現長野県)松代藩士である。黒船事件以前から開国を唱えていた開国論者で、幕府の下田開港のうわさを聞くと、これを批判し、より江戸に近い横浜開港に奔走するなど、新しい日本の建設に力を尽したのだが、明治維新を見ることなく元治元年(1864)京都で亡くなった。
象山にとって洋学を活かした活動の一つの柱が西洋砲術である。
天保13年(1842年)、象山が仕える松代藩主・真田幸貫が老中兼任で海防掛に抜擢されたことを受けて、江川英龍の下で、兵学を学ぶ。そして、藩主幸貫に『海防八策』を献上し高い評価を受けた。さらに江川英龍の下で兵学を学んだ、高島秋帆の技術を取り入れて大砲の鋳造に成功した。
活動のもう一つは、松代藩の殖産開発であるが、これは必ずしも成功しなかった。
地図測量との係わりを示す物として、象山が考案し、購入に関わった測量器機と自ら開発した「人造磁ケツ器」と呼ばれる地震予知器の開発がある(安政5年? 1858)。
後者の「人造磁ケツ器」とは、馬蹄形をした磁石ののようなもので(”ケツ”とは欠けた輪の意)、これに糸で結わえた鉄片を吸い付けておくと、地震の際に鉄片がはずれておもりが落下すると考えたようであるが、実用性には疑問がある。
「人造磁ケツ器」
その「人造磁ケツ器」といくらかの測量器機が出身地である長野市松代の象山記念館に保存されている。
嘉永6年(1853年)にペリーが浦賀に来航すると、松代藩は横浜応接所の警備を命じられ、象山も「軍議役」として横浜に出張した。この経験から、横浜が開港地として優れていると幕府に具申したことから、のちに「横浜開港の父」と呼ばれるようになった。また視察に際して、松代の測量方東福寺泰作らを同行させ、海の測量に従事させたといわれているが、それは当時の測量書にもあるように、艦船停泊の遠近、艦船の大小、装備の状況把握など黒船艦船の偵察といったところであったと思われる。
「測量集成」(福田理軒)より
佐久間象山は、幕末の兵学・洋学者で、信濃(現長野県)松代藩士である。黒船事件以前から開国を唱えていた開国論者で、幕府の下田開港のうわさを聞くと、これを批判し、より江戸に近い横浜開港に奔走するなど、新しい日本の建設に力を尽したのだが、明治維新を見ることなく元治元年(1864)京都で亡くなった。
象山にとって洋学を活かした活動の一つの柱が西洋砲術である。
天保13年(1842年)、象山が仕える松代藩主・真田幸貫が老中兼任で海防掛に抜擢されたことを受けて、江川英龍の下で、兵学を学ぶ。そして、藩主幸貫に『海防八策』を献上し高い評価を受けた。さらに江川英龍の下で兵学を学んだ、高島秋帆の技術を取り入れて大砲の鋳造に成功した。
活動のもう一つは、松代藩の殖産開発であるが、これは必ずしも成功しなかった。
地図測量との係わりを示す物として、象山が考案し、購入に関わった測量器機と自ら開発した「人造磁ケツ器」と呼ばれる地震予知器の開発がある(安政5年? 1858)。
後者の「人造磁ケツ器」とは、馬蹄形をした磁石ののようなもので(”ケツ”とは欠けた輪の意)、これに糸で結わえた鉄片を吸い付けておくと、地震の際に鉄片がはずれておもりが落下すると考えたようであるが、実用性には疑問がある。
その「人造磁ケツ器」といくらかの測量器機が出身地である長野市松代の象山記念館に保存されている。
嘉永6年(1853年)にペリーが浦賀に来航すると、松代藩は横浜応接所の警備を命じられ、象山も「軍議役」として横浜に出張した。この経験から、横浜が開港地として優れていると幕府に具申したことから、のちに「横浜開港の父」と呼ばれるようになった。また視察に際して、松代の測量方東福寺泰作らを同行させ、海の測量に従事させたといわれているが、それは当時の測量書にもあるように、艦船停泊の遠近、艦船の大小、装備の状況把握など黒船艦船の偵察といったところであったと思われる。
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