中津藩・慶應義塾
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蘭学とは所縁の深い中津藩江戸藩邸に近い木挽町にあった佐久間象山の塾に、中津藩は藩の子弟を数多く送り込み、象山は中津藩のために西洋式大砲二門を鋳造し上総国の姉ヶ崎で試射したり、藩邸に招待されて学問を教授したりしている。そのため中津藩の調練は他藩に比べておおいに進歩しており、象山に学んだ藩士・岡見彦三は江戸藩邸内に蘭学塾を設けて、中津藩家老が適塾の塾頭をしていた福澤諭吉を招聘して蘭学所(慶應義塾の前身)の講師とさせた。さらに、象山の息子・新撰組隊士の佐久間恪二郎が勝海舟の紹介で慶應義塾に入塾しているため、象山塾の洋学の系譜は初期の慶應義塾に亜流の形で伝わることとなった。島津文三郎など、象山から直接免許皆伝を得た者もおり、また福澤諭吉も岡見が所蔵していた佐久間象山の貴重な洋書を読んでおり、立田革など松代藩で共に蘭学を学び、慶應義塾に移ってきた者も居る。 慶應義塾が発足するに至るのは、中津藩が佐久間象山の勧めで洋式大砲二門を購入したはよいが、肝腎の象山が吉田松陰の密航事件の連座で信州などに蟄居されてしまい、後を薩摩藩の松木弘安、杉亨二らが担当していたが、幕府において勝海舟の台頭もあったので、大砲も判り勝とも通じる福沢諭吉が後任として中津藩の蘭学塾を任されることになったのである。福澤は、幕府の翻訳方となり渡欧前から仙台藩や紀州藩、三田藩、長岡藩とも交流や資金提供があり、帰国後はこれらの藩士らの入塾も相次いだため、慶応4年に慶應義塾を江戸藩邸で創設するに至った。
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