中津藩・慶應義塾とは? わかりやすく解説

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中津藩・慶應義塾

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/08 04:22 UTC 版)

象山書院」の記事における「中津藩・慶應義塾」の解説

蘭学とは所縁の深い中津藩江戸藩邸に近い木挽町にあった佐久間象山の塾に、中津藩は藩の子弟を数多く送り込み象山中津藩のために西洋式大砲二門を鋳造し上総国姉ヶ崎試射したり、藩邸招待され学問教授したりしている。そのため中津藩調練は他藩に比べておおいに進歩しており、象山学んだ藩士岡見彦三江戸藩邸内に蘭学塾設けて中津藩家老適塾塾頭をしていた福澤諭吉招聘して蘭学所(慶應義塾前身)の講師とさせた。さらに、象山息子新撰組隊士佐久間恪二郎勝海舟紹介慶應義塾入塾しているため、象山塾の洋学系譜初期慶應義塾亜流の形で伝わることとなった島津文三郎など、象山から直接免許皆伝得た者もおり、また福澤諭吉岡見所蔵していた佐久間象山貴重な洋書読んでおり、立田革など松代藩で共に蘭学学び慶應義塾移ってきた者も居る。 慶應義塾発足するに至るのは、中津藩佐久間象山勧め洋式大砲二門を購入したはよいが、肝腎象山吉田松陰密航事件連座信州などに蟄居されてしまい、後を薩摩藩松木弘安杉亨二らが担当していたが、幕府において勝海舟台頭もあったので、大砲判り勝とも通じ福沢諭吉後任として中津藩蘭学塾任されることになったのである福澤は、幕府翻訳方となり渡欧前から仙台藩紀州藩三田藩長岡藩とも交流資金提供があり、帰国後はこれらの藩士らの入塾相次いだため、慶応4年慶應義塾江戸藩邸創設する至った

※この「中津藩・慶應義塾」の解説は、「象山書院」の解説の一部です。
「中津藩・慶應義塾」を含む「象山書院」の記事については、「象山書院」の概要を参照ください。

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