中津第三(成小路)小学校
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:33 UTC 版)
「大阪市立神津小学校」の記事における「中津第三(成小路)小学校」の解説
現在の淀川区新北野付近はかつて西成郡成小路村と呼ばれ、町村制実施により西成郡中津村(1911年町制施行により中津町)となった。もとは現在の中津と一体の地域だったが、明治時代中期に実施された新淀川の開削工事により中津村は南北に分断され、北部の成小路地域が新淀川北岸の飛地状の地域となった。 中津村の児童は西成郡中津尋常高等小学校(現在の大阪市立中津小学校)に通学していた。新淀川開削以降、成小路地域からは十三橋(十三大橋の前身)を渡って通学することになった。しかし十三橋は車や馬の通行が多いことや、荒天時には強風などで危険などと指摘された。そのため住民らは北部の成小路地域への学校設置を求めた。 1912年には中津尋常高等小学校成小路分教場が設置され、尋常科2年以下の児童が通学するようになった。その後中津町では中津第二尋常小学校が開校し、分教場は1923年に中津第二校の分教場へと移管された。1923年9月には尋常科4年まで収容可能となった。 1925年3月1日に西成郡中津第三尋常小学校として独立開校した。中津町の大阪市への編入に伴い、1ヶ月後の1925年4月1日には大阪市中津第三尋常小学校と称した。 当初は現在の新北野コーポ西側付近(淀川区新北野1丁目11番付近)に校舎があったが、児童数の急増に伴い、1928年に救護施設・大阪府立修徳院跡(現在の淀川区新北野2丁目4番・5番付近)に移転した。この時に建設された木造校舎は当時「大阪市木造校舎の規範」といわれた。1934年の室戸台風では、大阪市内をはじめ府下各地の小学校で木造校舎が倒壊し大きな被害を出した例が相次いだが、成小路校の木造校舎への被害はなかった。 1941年の国民学校令により、大阪市成小路国民学校と称した。1944年には豊能郡箕面村(現在の箕面市)への学童疎開を実施している。 1945年6月7日の大阪大空襲により校舎を全焼した。終戦後の1946年に隣接校区の神津国民学校に統合されて休校となり、そのまま廃校となっている。
※この「中津第三(成小路)小学校」の解説は、「大阪市立神津小学校」の解説の一部です。
「中津第三(成小路)小学校」を含む「大阪市立神津小学校」の記事については、「大阪市立神津小学校」の概要を参照ください。
- 中津第三小学校のページへのリンク