伊予西園寺氏とは? わかりやすく解説

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伊予西園寺氏

(伊予西園寺家 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/11/06 16:20 UTC 版)

伊予西園寺氏(絶家
左三つ巴 ひだり みつともえ
本姓 藤原北家閑院流西園寺庶流[1]
家祖 西園寺公重[2][注釈 1]
種別 公家武家
出身地 山城国葛野郡北山
主な根拠地 伊予国宇和郡松葉[3]
著名な人物 西園寺公広
凡例 / Category:日本の氏族

伊予西園寺氏(いよ さいおんじし)は、日本氏族のひとつ。中世伊予西部を領した氏族[3]

本姓藤原氏藤原朝臣)。家系閑院流[4]西園寺家の支流にあたる。


歴史

室町時代から戦国時代にかけて、伊予国南西部の宇和郡一帯[4](現在の愛媛県西予市周辺)に勢力を持った地方豪族である[3]

宇和地方は鎌倉時代中期嘉禎2年(1236年)に西園寺公経鎌倉幕府に頼み込んで[5]橘公業からほとんど横領に近い形で獲得し[6]、自己の荘園とした。かつては、幕府滅亡から南北朝分立に至る動乱と西園寺宗家断絶の混乱の中で、公経の昆孫にあたる公良が、永和2年(1376年)に年貢収入の安定化を図って[7]宇和郡に入り、在地の土豪を支配下に組み入れて領国支配を開始したと考えられていた。これは、江戸時代に編纂された『宇和旧記』に由来する伝承である。しかし、伊予における西園寺氏の活動の初見は正平15年(1360年)2月15日であること、『師守記』に西園寺公重が当時四国の沿岸部を表す単語であった「辺土」で亡くなったと記載があることから、文和2年(1353年)11月に、公重の所領が西園寺実俊に売却されたのちに宇和郡に下向したとされる。また、伊予西園寺氏の活動が確認できる最初の発給文書は、正平15年(1360年)2月15日付けの国宣で、正平という南朝の年号を用いていること、南朝方の新居氏の氏寺である観音寺に対しての文書であることから、伊予国にいた西園寺氏は公重であると考えられる[2]

正平19年(1364年)には、西園寺氏の人間(石野弥栄はこれを公重の息子・西園寺実長のことであると推定している)が家督を相続している。ただし、『公卿補任』では実長は文和4年(1355年)に亡くなったとされており、西園寺公俊であるとする説もあるが、詳細は不明である[2]

次に伊予西園寺氏の活動が確認できるのは正平23年(1368年) 〜 同24年にかけてであり、花押から西園寺大納言西園寺実長か)が発給したものであると考えられている。また康暦2年(1380年)にも同様の書状が確認できる。北朝の年号である康暦が用いられている理由は、康暦の政変にて細川頼之が失脚し、南朝方であった河野道直と西園寺大納言が北朝方についたからであるとされる[2]

予章記』には「康暦元己未(1379年)、宮方は天授元年なり。霜月六日晩景に、通直御生害有ける。西園寺家も一所に御生害也」と見える[3]

松葉殿西園寺氏

伊予国に下った西園寺家の人物のうち、本家であったのは宇和郡松葉村の松葉城(岩瀬城)に入城した一族であり、周囲からは松葉殿宇和殿と呼ばれた。松葉殿西園寺氏の祖は西園寺公重とされ[8]、『予章記』には正平23年(1368年)6月には河野通直と共に花見山城を攻撃したとある。愛媛県西条市善光寺に伝わる位牌によると、康暦元年(1379年)11月6日に公重の後継者・西園寺公俊が通直と共に周桑郡の佐志久山にて細川頼之と戦い自刃したとされ、公俊の戒名は「西園寺殿俊峯道英大禅定」とされる。一方、一次史料には西園寺大納言が発給した書状が現存しており、康暦2年(1380年)にも同様の書状が確認できる。北朝の年号である康暦が用いられている理由は、康暦の政変にて細川頼之が失脚し、南朝方であった河野道直と西園寺大納言が北朝方についたからであると考えられる[9][10]

永享4年(1433年)1月当時の当主は、石野郷の荘官を務め、公俊の子の世代に当たる松葉熊満(のちに教右と改名)であったが、当時の管領である細川持之が大友親雄と戦う大内持世に合力するように命令が下っている。また同6年(1434年)9月には、熊満と伊予西園寺氏庶流で立間郷の荘官を務めた立間中将公広(戦国時代の西園寺公広とは別人)に対して再度大内氏に合力するよう持之から命じられている。同10年(1438年)10月10日には、熊満が公広との所領争いの仲裁のために上洛し、15日に将軍・足利義教に対面している。西園寺家当主の西園寺公名は幕府と共に仲裁に携わっており、『公名公記』によると、11月16日に両者は一度和睦したものの、熊満が消息を絶ってしまったという。また、永享の乱の際には松葉殿西園寺氏と立間殿西園寺氏は足利持氏の討伐に参加しているものの、松葉流の行動については伝聞体で記録されており、立間流と松葉流は別行動をしていたと推察できる。永享11年(1439年)には、河野氏経由で伊予の立間殿・竹林寺殿大和永享の乱への出兵が依頼されている。一方、松葉流の松葉教右は足利義教から偏諱を賜っており、将軍に直接仕える立場(奉公衆に近い直勤御家人)にあった。嘉吉2年(1442年)には松葉教右が初めて西園寺公名と面会しているが、教右が足利義教という後ろ盾を失ったことが関係しているとされる。同3年(1443年)1月にも教右は上洛したものの公名は不在であった。公名は教右の無礼を疎んでいたため、6月に立間公広が教右の知行分を除いた宇和荘代官に任じられ、従来の宇和荘における権限が教右から公広に移譲された。9月15日には再び上洛し、中原康富のもとを訪れており、また松葉氏の知行地自体は変わりないことが幕府から通達された[11][12]

南海通記』によると、文明11年(1479年)に讃岐国守護の細川義春河野教通を攻めた。これは応仁の乱山名氏方に加担したことが咎められたためであった。当時の松葉殿の当主は教右あるいはその子(西園寺実充は未だ生まれていない)であり、細川氏方に立って河野氏と戦い、両軍の和議が結ばれると「伊予屋形」に定められた。そして、永正7年(1520年)5月には西園寺実充(実光とも)が生まれた。実充は教右の子とされる。『公卿補任永正17年(1520年)5月条には、「権中納言、正三位、同実宣(京都西園寺家当主であり注によると当時25歳)。五月下旬伊予国に下向」とある。天文15年(1546年)3月には豊後国大友氏の襲来に備え、家老の三善春範を派遣して立間村の石城を土居宗雲に預けている。同年12月には足利義輝の将軍就任に際して上洛し、太刀一腰と馬一匹を献上している。弘治2年(1556年)5月には、宇和郡内の宇都宮氏と境界争いを行い、実充の嫡子・公高が多田村の飛鳥城で戦死し、宇都宮氏は西園寺氏の領域内に侵入した。永禄2年(1559年)7月18日に実充は従五位下・左近衛少将に任じられた。また、この頃に黒瀬城を築いて松葉城から移住している。同3年(1560年)6月には大友氏軍が宇和郡に上陸し、実充は三間氏、河原渕教忠、北之川殿(北之川通安)、野村殿(宇都宮乗綱)を動員して対抗している。しかし、土佐一条氏伊予国に侵攻するとの風聞が流れたため、諸将は自城に帰参している。8月には再び大友氏軍が上陸し、9月になると御荘殿(勧修寺基顕)、津島殿(津島通顕)、板島殿(立間殿流の西園寺宜久)、有馬殿(今城能定)、土居殿(土居清良)、中野殿(河野通賢)、深田殿(竹林院実親)といった諸将は降伏して人質を差し出すようになり、土居宗雲も自刃したため、実充は石城の後詰の旗本たちを引き揚げさせてしまった。永禄8年(1565年)5月に実充は上洛し、京都の大徳寺にて落髪し入道し「松葉入道」と呼ばれるようになった。『言継卿記』同年5月9日条によると、西園寺公朝の三条邸にて四辻秀遠、冷泉為益、三条実福、四辻公遠らと共に歌会に参加して「くれて見む茂る河べの夏草に蛍ぞ露の色をそへぬる」という歌を詠んだ[13]

実充には西園寺公家・公高という子がいたが、嫡子の公高は19歳で戦死している上に実充は以前当主として活動している。実充の後継者は複数の説がある。従来は立間殿西園寺公広(立間公広の曽孫)あるいは公高の子である西園寺公次が松葉殿西園寺氏の当主となり、その後に子の西園寺公宣が当主となったとされる。高知県金剛福寺にある土佐一条氏関係の位牌によると、公宣は一条房家の娘(月窓妙心)と結婚し、間に伊予守某(一秀梅信)が生まれているものの、伊予守某は天文18年(1549年)6月18日に死亡している。公宣は位牌が作られた天文23年(1554年)2月1日から弘治2年(1556年)10月30日頃には在世している。一方、公次が当主となったと考えられる時期と同時期の永禄12年(1569年)2月には、西園寺公広(系図では公宣の子で実充の養子とされる)が領主・黒瀬城主として神田を寄進している。『宇和旧記』は、弘治2年(1556年)5月の公高戦死により後継者がいなくなったため、来村の来応寺の従事であった公広が還俗して家督を継承したとしており、後継者となったタイミングは問題があるものの、須田武男は公広が実充の後継者であったとする記述自体は参考に値するとした[14]

永禄8年(1565年)4月には大友氏が襲来したが、西園寺氏勢は18か所の城に籠城して、城から一歩も出ず敵の退却を待った。翌5月、土佐一条氏が河原渕氏領に侵入した。公広は宇和郡の諸領主の旗頭として、河原渕教忠領の陣ヶ森へ出陣した。しかし、その時は一条氏軍は戦わずして退き、公広も引き揚げて6月に帰陣した。ところが同年8月、一条兼定は自ら軍勢を率いて出動し、陣ヶ森に布陣して、三間郷を窺い、公広は再度宇和郡の将兵を催して出陣し、9月には公広の率いる500余騎が、一条氏軍と河原渕領の奥野川において戦った。永禄9年(1566年)4月には一条兼定が再び河原渕領に侵入し、薄木城・竹の森城を攻め落して弓滝へ陣を布き、公広は出陣して金山城を本陣とし、弓滝合戦に勝って一条氏軍を退けた。同年7月には大友氏勢が襲来し、板島・三間・立間の各地を荒して放火し、宇和へ侵入し、7日間にわたって黒瀬城を攻め、公広の将兵はこれと戦って退けた。永禄10年(1567年)7月、公広は郡内の兵を催し、自ら河後森城主・河原渕教忠を攻めた。教忠は戦わずして降参し、深田の竹林院氏や中野殿河野氏の仲介によって、公広は教忠の在城を許した。この事件は、教忠が土佐一条氏一門出身の養子であり、一条氏の宇和郡来攻に際して城を出ないのみか、かえって一条軍を導入する気配があったことに起因する。永禄11年(1568年) 2月、一条兼定が陳ヶ森に来攻し、深田の一の森城、清延の薄木城、中野の高森城が攻め落された。公広は宇和郡の軍勢を率いて三間に赴き、土居の本城を本陣と定め、薄木城において敵軍と戦ってこれを破り、さらに吉野川で戦って敵を退けた。この年の春、道後の河野通直と郡内の宇都宮豊綱が争い、宇和の西園寺氏と中国地方の毛利氏が河野氏を援け、土佐一条氏が宇都宮氏を援助した。公広の軍勢は一条軍を郡境の正月ヶ森で破った。翌永禄12年(1569年)の彼岸、公広は鳥坂合戦の戦死者の供養を行ない、神領村の三島大明神社と下松葉村の春日五社に対し、神役の領田を寄進した。元亀元年(1570年)8月、一条氏軍が三間郷を攻め、深田の竹林院公義と中野の河野通賢が人質を出して降伏した。公広はこれを咎めて出兵したが、土居清良が仲介を行ない、人質を取返して公広に従うことになり、その追討を中止した。元亀2年(1571年)9月、一条氏軍は深田・中野・竹の森城を陥れた。そこで公広は有馬殿の居城金山城に出陣したが、一条氏軍は土居の大森城や有馬殿の金山城を攻め、さらに宇和深く侵入して、西園寺氏の居城黒瀬城を囲み、両軍の間にいわゆる松葉合戦が行われた。元亀3年(1572年)1月には、土佐国において長宗我部元親が勢力を強大化していたことから、一条氏は従来の政策を改め、宇和郡の諸将と結んだ。三間の土居清良がこれに応じ、公広も幕下の諸将と談じ、ここに一条・西園寺氏の間に和議が結ばれた。その後同年4月、一条氏が長宗我部氏と衝突し、西園寺氏に援助を求めた。公広は河原渕郷や三間郷の諸将を土佐へ派遣したが、長宗我部軍が出動せず、宇和郡の諸勢は戦わずして帰国した。同年7月、豊後の大友氏勢が宇和郡に来攻し、黒瀬城を攻めた。公広はここにおいて、豊後国の大友宗麟と和を結んだ。この時、道後の河野氏が中国の毛利氏と不和になり、毛利氏勢が伊予国に来襲すると、公広は宇和郡の将兵600余騎を派遣し、河野氏を援けて毛利氏軍と戦った。また同年9月には阿波国三好氏が河野氏を攻めると、公広はまた河野氏を援けて出兵し、風早郡で三好氏軍と交戦した。天正元年(1573年)春、河野通直は、織田信長に通じる三好氏の脅威をうけ、よしみを通じていた西園寺氏の援助を請うた。それで宇和郡の将兵は道後に赴き、河野氏を援護した。翌年11月、今度は土佐国の長宗我部氏軍が再度伊予国に侵入して、河原渕領の河後森城を攻略した。公広は出陣して三間郷の中城に本陣を置き、宇和郡の将兵に長宗我部氏軍を追わしめた。天正3年(1575年)3月には、毛利氏が織田氏と戦い、伊予国の豪族たちに援助を求めるに及び、公広は河野氏や郡内の宇都宮氏と共に、これに応じて宇和郡の将兵を派遣し、備後国鞆の浦に上陸させ、福山城攻略戦に参加させた。同年、長宗我部軍がまたもや河後森城を攻め、城主・河原渕教忠は城を捨てて走ったが、鬼北の軍勢が長宗我部氏軍をうち破り潰走させた。公広は早速出陣してその処置にあたり、城普請の間暫く滞留して川猟などをして過ごし、再び教忠を城主に任じて帰陣した。天正4年(1576年)3月に毛利氏が大友氏と戦いをはじめると、公広は毛利氏から援兵を要請された。公広はすぐさま宇和郡の将兵500余騎を安芸国へ派遣し、大友・小早川両軍の合戦に参戦させた。その後、6月に再度出兵を求められたが、この時は部将を選んで、300余騎を派遣した。ついで天正5年(1577年)2月から同7年(1579年)1月までの間、公広は毛利氏の求めに応じて中国地方へ派兵し、毛利氏を援けた。同年5月、公広は河原渕郷の鳥屋森城主芝政輔が保身のため長宗我部元親に通じたことを咎め、三間・宇和の軍勢に鳥屋森城を包囲させたが、政輔が二心のないことを誓ったのでこれを許した。天正9年(1581年)1月には、前年に北之川殿を攻略した長宗我部氏軍は、すでに降伏した曽根景房らを先手とし、宇和に来襲して黒瀬城を攻めた。公広は1500余騎をもって出撃し、漸くにして敵軍を退けた。同年5月、長宗我部氏軍は三間表に来攻し、岡本城やかまち坂で合戦が行なわれた。公広は後詰として出兵した。長宗我部氏軍が退却するに及び、その案内役をつとめた芝政輔の追討にとりかかった。しかし、政輔が人質を差し出して詫をいれたので、再びその歎願をきき入れてこれを許した。同年8月、公広は伊賀上村の大龍山歯長寺の仏殿を再建した。同年9月、公広は先に長宗我部氏に降った北之川・魚成氏を攻めたが、折から大友軍が来襲して各地に上陸してきたため、公広をはじめ諸将は囲みを解いて帰陣した。これより先公広は天正8年(1580年)以来、中国の毛利氏と不和となり、いったん手切れの状態になり対立していたが、この年和陸して10月には毛利氏の求めに応じて中国地方へ派兵した。天正10年(1582年)1月、宇和郡多田領の農民と郡内領鳥坂の農民が、鹿猟のことから争いを起すや、公広は大野直之の地蔵ヶ嶽城を攻めたが、河野通直が仲介して和睦した。同年3月、羽柴秀吉備中国の高松城を攻略すると、毛利輝元は援軍を河野・宇都宮・西園寺らの伊予豪族に求めた。同年4月、公広は宇和郡の将兵800余騎を派遣したが、本能寺の変が発生して和議が結ばれ、宇和郡勢は6月に帰国した。天正12年(1584年)2月、長宗我部氏軍が、河原渕領に来襲し、元親自身も陣ヶ森に布陣して三間郷を窺った。公広は宇和郡の将兵を率いて深田の上城に出陣し、彼我の間に激しい戦闘が繰り広げられた。ようやくにして長宗我部氏軍を退却させた公広は、芝政輔ら一族が長宗我部氏に通じていることを察知したので、早速討伐せんとしたところ、政輔が国境を守る苦を述べ、宥しを請うたので、3度これを有して帰陣した。この年3月、公広は津島領主越智通顕と共に、来村郷祝森村の祇園社の再建を行ない、領内の平穏を祈願した。同年10月、長宗我部氏軍は再び黒瀬城を攻めた。公広らの宇和郡の将兵は防戦したが、ついに黒瀬城も陥落した。すでに伊予国の諸豪族はほとんど長宗我部氏に降っており、公広も元親に降伏した。天正13年 (1585年)年夏、豊臣秀吉の四国攻めが行なわれ、小早川隆景が伊予国に渡海し、東予・中予の計伐が進むに及び、公広らの宇和郡の将兵は同年8月に戦わずして小早川氏の軍門に降った。そして小早川隆景が伊予国領主となると、公広は下城して九島の成願寺へ盤居した。『清良記』は、その時なお公広の在城を記しているが、隆景が黒瀬城を西園寺氏の家老宇都宮氏に預けたことを示す公広の書状が「宇和旧記』に収録されている。天正14年(1586年)夏、秀吉の九州平定が開始され、小早川隆景が九州へ出陣するに際し、公広は隆景より従軍を求められ、豊前国の除原の陣に加わった。公広はこの陣中において、従軍中の前白木城主・緒方与次兵衛の任官を行なっており、公広がいまだ宇和の領主としての権威をもっていたことを如実に物語っている。天正15年(1587年)になり、九島の成願寺に居た公広は、同寺へ阿弥陀如来仏を作らせて納めた。同年夏、戸田勝隆が宇和・喜多二郡領主となるや、彼は地侍の抬頭を怯れ、宇和郡の旧領主公広を除くことを企て、秀吉から公広に本領の半分が安堵されたと偽って大洲に誘い、不意を襲って、12月11日に公広主従を討ち取った。公広の墓は大洲の法花寺にある。法名ははじめ心月広雲居士と称されたが、後に西園寺殿見桃完悟大居士と追諡され、位牌が清泰山光教寺にある[15]

宇和島藩に仕えた松田七左衛門・兵右衛門親子は西園寺公広の末裔を自称した[16]

所領

  • 永長郷
    • 下川村・皆田村・伊南坊村・新城村・明石村・鬼夕窪村・伊賀上村・松葉町・神領村・久枝村・野田村・小野田村・下松葉村・上松葉村・永長村・渡江
  • 岩野郷
    • 上岩木村・下岩木村・小原村・清沢村・馬木村・李所村・田苗村・真土村・大江村・真士村・大江村・賀斑村・賀茂村・板戸村・常定寺村・窪村・平野村・中村村・伊崎村・雁浜浦・皆江浦・荒網代浦・荒立浦・安土浦・朝立浦・安士浦:朝立浦

・保内郷

    • 二及浦・垣生浦
  • 周知郷
    • 長谷村

立間殿西園寺氏

立間殿西園寺氏は松葉殿西園寺氏の庶流とされるが、いつ頃に分派したのかは不明である。立間殿来村殿の名は、旧立間郷来村(後の来村郷来村)が西園寺氏の居住地であったところから起ったものである。さらに戦国時代末期に板島に居城があったので、板島殿とも呼称された。建治4年(1278年)2月には、立間郷地頭の藤原重貞が立間の大乗寺へ八尺地蔵菩薩を納め、その後50余年を経た元徳2年(1330年)には、宇和荘の代官・開田善覚禅門が立間村の大光寺を開基した。須田武男は、この藤原重真と開田善覚禅門は西園寺家の一族であったと考察している。暦応3年(1340年)10月18日付の喜多郡菅田村(現[[大洲市]0菅田)の清谷寺譲状は、「来村殿一族子孫」と来村殿の名をあげ、その存在を明示しているが、これが西園寺氏の一族を指していたかは不明。また、来村の真正山来応寺は、至徳2年(1385年)宗賢和尚を開山として創設された寺であるが、来村殿西園寺氏の氏寺とされる。室町時代中期、西園寺公広なる人物がおり、京都の領家西園寺家から、立間中将公広と呼ばれていた。公広の名は、室町時代から戦国時代にかけて、来村殿に3人あげることができる。初代にあたる立間中将公広は、領家から宇和荘の代官に補任され、来村段領内の開発ばかりでなく、伊賀上村の歯長寺へ寺領を寄進するなど、宇和荘全域の経営にあたり、武力を養って大和国播磨国の叛乱鎮圧に出兵した。戦国時代中期の公広は、来村殿2代目の公広である。戦国末期の黒瀬城主・西園寺公広は来村殿出身で、本家に当たる松葉殿西園寺氏の家督を継承し、宇和郡領主の旗頭となった。その弟が、板島殿の西園寺宣久である[17]

西園寺住周は、室町時代初期の応永32年(1423年)12月初日に喜佐方村の登蓮寺へ毘沙門像を勧請した。その時の記録には「西園寺大檀那藤原住周、住持祥全」とある。その子と考えられる西園寺公広は、室町時代中期の頃、立間郷領主として活動した。当時宇和荘は領家の西園寺公名が京都にいて、荘内の松葉村に松葉熊満、立間郷来村に立間中将公広、三間郷深田村に竹林院公親がいて、それぞれ宇和郡を分割した代官であった。永享10年(1438年)には公広と熊満との間に確執が起り、同年7月26日に公広は上洛して領家の西園寺公名邸に伺候し、宇和荘の報告を行なった。この時、熊満との確執を語り、折紙2000疋と黒太刀を随身した。公広と熊満との確執は、時の将軍・足利義教がこれを仲介し、同年11月16日に室町幕府において両者が和解した。この時郡内(大洲)の宇都宮氏と伊予郡の森山氏が立会した。この年、永享の乱が発生すると、公広は出陣の幕命をうけ、松葉氏と和議の整った後、関東に向けて京都を出発した。翌11年春、大和国の越智維通の乱(大和永享の乱)が起きると、公広は伊子国守護・河野教通と共に大和国へ進発した。永享12年(1440年)6月5日には、公広は大和の陣から帰った。同年8月4日、領家の西園寺公名は公広の舎弟の名字選定に当たっていて、公広に弟がいたことがわかる。同年29日、公広は竹林院公親と共に領家へ伺候し、小折太刀等を献じ、謁見を受けて盃を賜わった。嘉吉元年(1441年)6月に喜吉の変が起きると、公広、熊満、公親は幕府から赤松氏追討を命ぜられ、同年7月28日、京都から播磨国へ向けて進発し、伊予国守護・河野教通の階下に入り、播磨国木山城よ赤松氏を攻めた。嘉吉3年(1443年)6月19日には上洛して領家へ伺候し、折紙千疋と太刀を献上したが、その理由は宇和荘において松葉氏知行の分を除き、その代官職に補任された謝礼であった。 宇和荘代官であった公広は、享徳2年(1453年)4月8日に伊賀上村の歯長寺住持の訴訟を受け、歯長寺領を安堵した[18]

戦国時代の初期、宇和に居住していた西園寺氏は、京都の領家西園寺氏へ使者を出し、宇和荘のことを報告していた。文明14年(1482年)2月10日、来村殿の使者となった高野聖は、京都の西園寺家邸へ書状を持参し、2日後の13日、使者の高野聖は返書を与えられ、朝食のもてなしを受けた。このことは『管見記』に「従宇和来村許便状到来」と記され、前記の「清谷寺諸旦那譲状」の記事と共に、来村殿の来村居住を語っているものであるが、当時の来村殿の実名は不明である[19]

戦国時代の初期には来村殿・西園寺公久がいて、明応3年(1494年)に大旦那として祝の森村の祇園社を建立した。同年11月6日に、来村殿西園寺公久は来村の坂下津浦の三島宮の再建を行なった。また明応9年(1500年)には、来応寺の比丘が願主になり、寄松の石引谷白王権現が再建されたが、それを行なったのは公久であったと考えられる[20]

戦国時代の中期には来村殿に西園寺公広がおり、永正15年(1518年)3月16日に来村の三島大明神社へ大乗経六十六部を奉納した。公広という人物は、永享年頃の立間中将公広、永正年間の後西園寺公広、戦国時代末の後西園寺公広がいるが、この3人のうち、永正年間の公広の事績は立間中将公広の活躍した年代から約80年後、戦国末期、黒瀬城主公広の死亡年時(天正15年)以前69年であることから、3人は別人であると見られる。「後西園寺」の名乗りは、2代目を意味すると考えられる[21]

天文3年(1534年)9月12日には、河原渕領芝村の奈良山等妙寺へ華鬘12箇が奉納されている。書付に見える後西園寺大蔵卿玖春は、来村殿であろうと考えられる[22]

来村殿西園寺氏出身の西園寺公次は、弘治2年(1556年)に黒瀬城主・松葉殿西園寺氏の嗣子となった。また最後の黒瀬城主・西園寺公広も来村殿西園寺氏の出身といわれている。このことは、『宇和旧記』と『西園寺家略譜』などが記している[23]

公広の弟・西園寺宣久の名は『清良記』に初めて見え、それは板島丸串城主西園寺宣久と記されている。その後、『宇和旧記』や『宇和郡記』も同様に記している。しかしながら、元板島領主の宜久は、その出身が来村殿西園寺氏であり、しかもその領地が旧来村殿の一部であることから、板島殿と来村殿は同一と考えられる。則村の仏木寺文書は、元亀2年(1571年)頃の宜久を来村殿と明記している。元来、来村殿は来村坂下津の亀ヶ渕域に居城していたが、戦国時代末、豊後国大友氏の軍勢の侵攻が激しくなると、これに対応する必要から、板島に丸串城が築かれ、黒瀬城主後西園寺公広が兄弟の来村殿西園寺宣久を入 城させた。これが板島殿の名の起こりである。来村殿時代の宣久は、元亀2年(1571年)1月、有間領の則村仏木寺に対し、兵乱による文書の散逸を防止するように命じている。 天正4年(1576年)6月に宣久は伊勢神宮参宮のために板島を出発した。7月8日に上洛して西園寺本家に謁見し、7月13日に伊勢神宮へ参拝し、7月18日には奈良に着き、春日大社東大寺興福寺へ参拝した。宣久は文才があり、詩文・和歌・俳諧をよくし、伊勢参宮の紀行文を綴った。宣久は天正8年(1580年)に辞世の歌2首を残して没し、法名を後西園寺殿永桃道宗大居士と称した[24]

所領

  • 来村郷
    • 来村、祝の森村、内須賀浦(但し祝の森の一部は津島殿の領地)
  • 板島郷
    • 毛山村、下村、中間村、柿原村、高串村、光満村、大浦

脚注

注釈

  1. ^ 西園寺公良とする系図もあるが、一時史料と矛盾している[3]

出典

  1. ^ 太田 1934, p. 2429.
  2. ^ a b c d 石野弥栄「南北朝・室町朝の伊予西園寺氏--公家大名成立の前提」『國學院雜誌』第88巻第10号、1987年。 
  3. ^ a b c d e 太田 1934, p. 2432.
  4. ^ a b 川岡 1988, p. 5
  5. ^ JLogos | 宇和荘(中世) | 角川日本地名大辞典(旧地名編) > 愛媛県 >”. 2021年8月21日閲覧。 (日本語)
  6. ^ データベース『えひめの記憶』|生涯学習情報提供システム”. 愛媛県生涯学習センター. 2021年8月21日閲覧。 (日本語)
  7. ^ 【刀剣ワールド】西園寺家伝来の日本刀 刀 無銘 伝安綱”. 2021年8月21日閲覧。 (日本語)
  8. ^ 石野弥栄「南北朝・室町朝の伊予西園寺氏--公家大名成立の前提」『國學院雜誌』第88巻第10号、1987年。
  9. ^ 石野弥栄「南北朝・室町朝の伊予西園寺氏--公家大名成立の前提」『國學院雜誌』第88巻第10号、1987年。
  10. ^ 須田武男『中世における伊予の領主』(須田武臣、1978年)
  11. ^ 石野弥栄「南北朝・室町朝の伊予西園寺氏--公家大名成立の前提」『國學院雜誌』第88巻第10号、1987年。
  12. ^ 須田武男『中世における伊予の領主』(須田武臣、1978年)
  13. ^ 須田武男『中世における伊予の領主』(須田武臣、1978年)
  14. ^ 須田武男『中世における伊予の領主』(須田武臣、1978年)
  15. ^ 須田武男『中世における伊予の領主』(須田武臣、1978年)
  16. ^ 西園寺進『伊予西園寺家の人々 : 随筆』(西園寺進、1987年)
  17. ^ 須田武男『中世における伊予の領主』(須田武臣、1978年)
  18. ^ 須田武男『中世における伊予の領主』(須田武臣、1978年)
  19. ^ 須田武男『中世における伊予の領主』(須田武臣、1978年)
  20. ^ 須田武男『中世における伊予の領主』(須田武臣、1978年)
  21. ^ 須田武男『中世における伊予の領主』(須田武臣、1978年)
  22. ^ 須田武男『中世における伊予の領主』(須田武臣、1978年)
  23. ^ 須田武男『中世における伊予の領主』(須田武臣、1978年)
  24. ^ 須田武男『中世における伊予の領主』(須田武臣、1978年)

参考文献

関連項目




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