仙北検地とは? わかりやすく解説

仙北検地

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/05 01:26 UTC 版)

仙北一揆」の記事における「仙北検地」の解説

天正18年1590年)、豊臣秀吉奥羽地方の諸豪族対し小田原征伐への参陣を命令した出羽国北部では、仙北三郡北部北浦郡)の角館城城主戸沢盛安がこれにいち早く呼応し仙北三郡南部上浦郡)の小野寺義道とその一族西馬音内茂道、中央東部(中郡)の本堂城城主本堂忠親、沿岸部秋田氏由利衆なども参陣したが、秀吉はかれらに朱印状あたえて所領安堵した秀吉新しく服属することとなった地域に対しては、大名小名旧領そのまま安堵するではなく原則的には、いったん太閤蔵入地としたうえで改め恩給するようなかたちを採用したが、このような政策実施していくためにはまず検地をおこなう必要があった(太閤検地)。 後北条氏降して関東地方平定したのち、陸奥国会津黒川城(後の会津若松城)に入った秀吉は、天正18年8月10日奥羽全域の総検地命令した8月12日秀吉黒川において検地施行に関する4か条の朱印状発給しており、それによれば一人残し置かずなでぎり申し付くべく候」「一郷も二郷も、悉くなでぎり仕るべく候」など検地対す反対に苛烈処分認め強硬な姿勢示した。ただ実際には、それに先だつ7月11日時点で、越後国大名上杉景勝に対しては、秀吉家臣大谷吉継軍監として庄内最上由利仙北出羽各地検地を、また、加賀国前田利家に対して秋田津軽南部北奥羽各地検地を、それぞれ命じていた。仙北地方検地は『上杉景勝年譜によれば8月中旬以降には着手されており、戸沢光盛宛の木村重茲大谷吉継前田利家連署によれば、この3名は8月17日ころには小野寺氏周辺上浦郡方面いたもの考えられる上杉景勝とその重臣色部長真また、8月10日頃には大谷吉継とともに庄内地方山形県沿岸部)の仕置にあたっていたことより17日頃には上浦郡にあった推察される。吉継は横手盆地東部横手城入り景勝盆地西端大森城入った検地は、棹入れを前提とする指出検地方法をとり、その基準は「出羽国検地条々によった指出は、仙北地方慣例にしたがって苅高(稲の収穫量単位としてはかった村高)とし、それを一定の換算率により永楽銭貫高改め年貢銭納とした。しかし、最終的に石高に換算しなおし、他の地方との統一図られた。諸史料によれば8月末ころまでには概ね仙北秋田地域仕置すすめられ実際検地9月実施されたと考えられるその間仙北地方においては武具狩りおこなわれ、城の破却35か城にのぼった

※この「仙北検地」の解説は、「仙北一揆」の解説の一部です。
「仙北検地」を含む「仙北一揆」の記事については、「仙北一揆」の概要を参照ください。

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