仙北検地
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天正18年(1590年)、豊臣秀吉は奥羽地方の諸豪族に対し小田原征伐への参陣を命令した。出羽国北部では、仙北三郡北部(北浦郡)の角館城城主戸沢盛安がこれにいち早く呼応し、仙北三郡南部(上浦郡)の小野寺義道とその一族西馬音内茂道、中央東部(中郡)の本堂城の城主本堂忠親、沿岸部の秋田氏や由利衆なども参陣したが、秀吉はかれらに朱印状をあたえて所領を安堵した。秀吉は新しく服属することとなった地域に対しては、大名・小名の旧領をそのまま安堵するのではなく、原則的には、いったん太閤蔵入地としたうえで改めて恩給するようなかたちを採用したが、このような政策を実施していくためにはまず検地をおこなう必要があった(太閤検地)。 後北条氏を降して関東地方を平定したのち、陸奥国会津黒川城(後の会津若松城)に入った秀吉は、天正18年8月10日、奥羽全域の総検地を命令した。8月12日、秀吉は黒川において検地施行に関する4か条の朱印状を発給しており、それによれば「一人も残し置かず、なでぎりに申し付くべく候」「一郷も二郷も、悉くなでぎり仕るべく候」など検地に対する反対には苛烈な処分を認める強硬な姿勢を示した。ただ実際には、それに先だつ7月11日の時点で、越後国の大名上杉景勝に対しては、秀吉家臣大谷吉継を軍監として庄内・最上・由利・仙北の出羽各地の検地を、また、加賀国の前田利家らに対しては秋田・津軽・南部の北奥羽各地の検地を、それぞれ命じていた。仙北地方の検地は『上杉景勝年譜』によれば、8月中旬以降には着手されており、戸沢光盛宛の木村重茲・大谷吉継・前田利家連署状によれば、この3名は8月17日ころには小野寺氏領周辺、上浦郡方面にいたものと考えられる。上杉景勝とその重臣色部長真もまた、8月10日頃には大谷吉継とともに庄内地方(山形県沿岸部)の仕置にあたっていたことより、17日頃には上浦郡にあったと推察される。吉継は横手盆地東部の横手城に入り、景勝は盆地西端の大森城に入った。 検地は、棹入れを前提とする指出検地の方法をとり、その基準は「出羽国検地条々」によった。指出は、仙北地方の慣例にしたがって苅高(稲の収穫量を単位としてはかった村高)とし、それを一定の換算率により永楽銭の貫高に改め、年貢は銭納とした。しかし、最終的には石高に換算しなおし、他の地方との統一が図られた。諸史料によれば、8月末ころまでには概ね仙北・秋田地域の仕置がすすめられ、実際の検地は9月に実施されたと考えられる。その間、仙北地方においては武具狩りがおこなわれ、城の破却は35か城にのぼった。
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