仙北・庄内地方の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 04:30 UTC 版)
「慶長出羽合戦」の記事における「仙北・庄内地方の戦い」の解説
9月下旬になって、秋田実季は最上義光に対して由利衆とともに上杉領である庄内地方へ攻め込むことを通知していた。これに対して義光は仙北地方の小野寺氏を攻撃するように求める返書を出した。しかし、庄内攻撃は家康の直接の指示を受けたものであった。しかも、義光の返書が着く前に実季は家康に使者を出した上で、兵の方向を仙北地方に変えて小野寺氏の大森城攻撃に踏み切った。結果的に最上領に攻め込んでいた小野寺氏は後退し、11月には同氏の本拠地である横手城が陥落したものの、最上義光は自分の下知に従わない実季や由利衆を軍令違反とみなして非難し、自分達は家康の命令指揮下にあると考える実季はこれを「讒言」とみなして反発、両者に確執として残った。 一方、最上軍は降伏した下秀久を先手、義光の嫡男・義康を総大将として庄内地方に進攻すると、尾浦城を攻め落とした。翌慶長6年(1601年)3月、酒田東禅寺城を攻略し、十五里ヶ原の戦いおよび奥州仕置で失った庄内地方全域を上杉氏から奪還した。
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