他種動力方式への移行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/13 02:55 UTC 版)
「日本の蒸気機関車史」の記事における「他種動力方式への移行」の解説
C61形・C62形が登場した1940年代後半、日本の鉄道は極端な石炭不足に悩まされ、主要幹線などの電化を行なったが、全体の電化率は10%程度で、依然蒸気機関車が輸送の主役であった。そのため1950年代に入ってからC63形の製造が計画されたこともあるが、後述の経緯で実現をみることなく、1948年(昭和23年)にE10形5両が製造されたのを最後に国鉄における蒸気機関車製造は終了した。のちにDF50形の価格の高さから蒸気機関車の再生産も話題に上がったが国産ディーゼル機関車の開発が決定している。 1959年(昭和34年)に「動力近代化計画」が答申される。これには、「昭和35年度から50年度までに主要線区5000kmの電化と、その他の線区のディーゼル化を行ない、蒸気機関車の運転を全廃すべきである。そして、投資額は電化施設955億円、車両関連施設その他765億円(電化費338億円、ディーゼル化費427億円)、車両3145億円(電化費1420億円、ディーゼル化費427億円)で合計4865億円としている」とある。この背景に151系や101系に代表される1957年(昭和32年)以降の新性能電車の登場や、液体式変速機の実用化で1953年(昭和28年)のキハ10系以降、長大編成運転可能となった気動車の台頭なども挙げられる。 無煙化計画は、まず明治・大正時代に製造された古参の機関車と幹線用の大型機関車から始まり、次いで地方線区と支線区の中・小型機関車を置き換えていった。特に東海道・山陽本線の電化は早期に進められたため、両線用の大型機関車は早期に余剰となったが、車体寸法や軸重の問題で転用が困難で、一部が呉線・函館本線などの非電化の幹線に転用されたり軽軸重化改装を施されて他の路線に転用されたりしたほかは早々に第一線を退いていった。小回りが利く小型機関車もDD16形などに代表される軽量ディーゼル機関車の登場により、存在価値を失った。 制式機関車が比較的早く置き換えられた中、構内入換用の蒸気機関車は後年まで生き残った。貨物ヤードでの重作業にはDD13形では力不足であり、DD20形が試作されたものの失敗に終わった。このため、大正時代に製造された8620形や9600形が使われ続けたが、1970年代に入ってDE10形などの入換用のディーゼル機関車が登場すると、次々と置き換えられていった。
※この「他種動力方式への移行」の解説は、「日本の蒸気機関車史」の解説の一部です。
「他種動力方式への移行」を含む「日本の蒸気機関車史」の記事については、「日本の蒸気機関車史」の概要を参照ください。
- 他種動力方式への移行のページへのリンク