今日のリプカ人
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 04:32 UTC 版)
「リプカ・タタール人」の記事における「今日のリプカ人」の解説
現在、1万人から1万5000人のリプカ人がポーランド・リトアニア共和国の旧領に住んでおり、容貌はほぼコーカソイドである。 現在のポーランドに住んでいるリプカ人の家族たちの大半は、その家系を初期のポーランド・リトアニア共和国のタタール貴族に遡ることが出来る。かつて、リプカ・タタール人はポーランド北東部、ベラルーシ、リトアニア、ラトヴィア南東部、ウクライナに住みついていた。彼らの大部分は現在、ベラルーシ、リトアニア、ポーランドに住んでいる。リプカ・タタールの大部分(80%)は、ポーランド・リトアニア共和国の貴族階級と同化してしまい、一方で下級貴族たちはベラルーシ、ポーランド、リトアニア、ウクライナの都市民や農民と同化した。 多くのポーランド・タタール人が20世紀初頭にアメリカ合衆国に移住し、その大半が北東部諸州に住みついた(同地域から離れたフロリダにも共同体が存在する)。ニューヨークにも小さいが活動的なコミュニティが存在している。同市にある組織「ポーランド系タタール人イスラーム・センター」は、最近までブルックリンにモスクを設置していた(同センターは1928年に創設された)。 第2次大戦後にソヴィエト連邦がポーランド東部地域を併合すると、ポーランドにおけるタタール人集落はボホニキ(英語版)とクルシニャヌィ(英語版)を残すのみとなった。ソ連に併合された地域の3000人を数えるタタール人の大多数はポーランドに送還され、グダニスク、ビャウィストク、ワルシャワ、ゴジュフ・ヴィエルコポルスキのような都市に集まって住むようになった。ゴジュフ・ヴィエルコポルスキ近郊に築かれたタタール人家族の再定住地域は、「タタール人の丘(Górki Tatarskie)」と呼ばれるようになった。 1925年には、「イスラーム宗教協会(Muzułmański Związek Religijny)」がポーランドのビャウィストクに設立された。1992年には別のリプカ人組織「ポーランド共和国タタール人機構(Związek Tatarów Rzeczypospolitej Polskiej)」が創設され、ビャウィストクとグダニスクに支部を置いて活動している。 ポーランドでは、1630年にはタタール人人口が10万を数えたが、2002年の国勢調査では自分を民族的タタール人と認識している人は僅か447人しかいなかった。大半が歴史を通じてポーランド人に同化してしまったものであるが、ビャウィストク近郊のタタール人の地方では現在もモスク(ローマ・カトリック教徒の大工たちが建てたので、純粋なイスラム風でもない独特で不思議な建築様式となっている)があり、イマームもいる。クルシニャーニ村のヤヌーシュ・アレクサンドロヴィチはイマームであるが、宗教活動だけでは生活できないので平日は銀行員としてサラリーマン生活をしている。現地ではリプカ・タタール人の伝統料理を提供するレストランがあり、商売を通じてリプカ・タタール伝統文化の紹介と維持に一役買っている。ここの人々は伝統的に豚肉も食べればお酒も飲む。この地方一帯は「週休3日の土地」とも呼ばれる。イスラム教、ユダヤ教、キリスト教の3つの宗教が混在するため、それぞれの安息日である金曜日、土曜日、日曜日の3日がすべてこの一帯の事実上の休日になり、みな休んでしまうことから。
※この「今日のリプカ人」の解説は、「リプカ・タタール人」の解説の一部です。
「今日のリプカ人」を含む「リプカ・タタール人」の記事については、「リプカ・タタール人」の概要を参照ください。
- 今日のリプカ人のページへのリンク