仁木開拓までとは? わかりやすく解説

仁木開拓まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/16 06:08 UTC 版)

仁木竹吉」の記事における「仁木開拓まで」の解説

明治維新後の明治8年1875年1月麻植阿波の両郡長へ、北海道開拓移民募集許可申請している。これは同地で、肥料となる鰊粕価格上昇吉野川水害などによって急増した貧民救済のためとしている。また同国出身の元開拓使官吏岡本監輔影響受けたという。2月には上京して旧藩主・蜂須賀茂韶面会し、その賛同受けて開拓次官黒田清隆紹介される黒田了解取り付け3月には開拓使の「玄武丸」で初め渡道した。 札幌郡到着した竹吉は同地開拓使勧業課に赴いて4月からの道内巡回許可得た最初静内郡旧主稲田邦植とその家令内藤弥平訪ね次いで有珠郡伊達邦成田村顕允鎌田惣五郎会って相談持ちかけている。その後亀田郡七重村にあった七重農業試験場視察。その他、檜山郡津軽郡久遠郡瀬棚郡岩内郡古宇郡古平郡余市郡小樽郡巡回して12月札幌戻った。翌明治9年1876年種子取り寄せて試験的な栽培開始し、「北海道煙草菽麦拡張論」を開拓使建言した。明治10年1877年大阪府朝陽館主・五代友厚インド法を学び明治11年1878年勧業職員として、静内郡にて製造開始する静内郡での製については竹吉と、やはり旧稲田家であった高岡右衛門二人中心となって進められ稲田邦植らの支援を受けながら行われた。 明治12年1879年東京府開拓使北海道産殖の建白行い3月にその作付技術教授許可取り付ける。また開拓移民希望者の多く物価高騰人口過剰による貧困動機としていたため、政府土地移住開墾にかかる費用貸与求めている。当初移民募集高岡右衛門共同行っていたが金銭トラブルから決別したらしく、実際には竹吉の単独事業となった5月高知県現在の高知県徳島県)にて北海道移住者を募集し11月には101戸・361名の開拓移民率いて北海道余市郡入植した。その功績により、明治13年1880年3月6日、竹吉によって開拓され一帯を、彼の姓に因んで仁木村」とする布告なされた

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