人吉攻防戦とは? わかりやすく解説

人吉攻防戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 19:11 UTC 版)

西南戦争」の記事における「人吉攻防戦」の解説

4月30日常山三番中隊中村遊撃隊六番小隊春田吉次は頭治などそれぞれ要地守備したが、5月3日から7日までの宮戦い10日から14日までの平瀬戦いで征討軍は中村中佐の活躍によりこれらを敗走させることに成功した中村中佐は21日横野方面薩軍襲撃し岩野村敗走させた。一方尾八重守っていた干城隊二番中隊岩野村守備し22日前面征討軍を襲撃し敗走させた。さらに追撃しようとした弾薬不足していたこともあり、米良の西八重退却した。 別働第2旅団7つ街道から球磨盆地攻め入る作戦立て5月1日から9日までこの作戦遂行した。まず前衛隊は球磨川北岸沿いを通る球磨川道、南岸沿いを通る佐敷道から攻めたが、街道大部隊が通るには困難な地形であったために官軍各地薩軍敗退した。しかし、人員物資の不足により、薩軍当初勢いなくなった。そこを突いて12日、別働第2旅団球磨盆地北部にある五家荘道等の5つ街道から南下し始めた薩軍球磨川北部守り薄かったので、別働第2旅団12日から25日までの13日間に五木荘道の頭治・竹の原、球磨川道の神瀬、種山道、仰烏帽子岳など多く要地陥落させた。 この頃桐野宮崎から鹿児島方面および豊後等の軍を統監していたが、ここを根拠地とするために宮崎支庁占領し28日軍務所と改称した。別働第2旅団侵攻で危険が目前迫った人吉では、村田新八らが相談して安全をはかるために、29日池上随行させて狙撃隊等2,000名の護衛西郷宮崎軍務所へ移動させた。31日西郷軍務所に着くと、ここが新たな薩軍本営となり、軍票西郷札)などが作られ財政建て直し図られた。 山田少将指揮する別働第2旅団主力部隊30日五家荘道・照岳道などから人吉向かって進撃した。これと戦った薩軍各地敗退し五家荘道の要地である江代陥落した。また神瀬口の河野主一郎大野口の淵辺は共に人吉にいたが、薩軍敗績し、人吉危機陥ったことを聞き、球摩川に架かる鳳凰向かった。しかし、官軍勢い止められず、燃やしてこれを防ごうとした淵辺は銃撃受けて重傷負い吉田後送されたが亡くなった6月1日早朝、照岳道の山地中佐隊に続いて征討軍が次々と人吉突入した。そして村山台地砲台設置し薩軍本営のあった球磨川南部砲撃した。これに対し村田新八率い薩軍人吉城二ノ丸砲台陣地設け対抗した。しかし薩軍大砲射程距離が短いために適わず、逆に永国寺人吉城城下町焼いてしまった。この戦い三日続いた薩軍本隊大畑などで大口方面雷撃隊と組んで戦線構築し征討軍のさらなる南下防ごうとしたが失敗し堀切峠越えて飯野へと退却した。こうして人吉征討軍の占領するところとなった4日になると、薩軍人吉隊隊長童治成らが部下と共に別働第2旅団本部降伏しその後も本隊に残され部隊征討軍の勧告受け入れ次々と降伏した人吉隊中にはのちに征討軍に採用され軍務服したものもあった。

※この「人吉攻防戦」の解説は、「西南戦争」の解説の一部です。
「人吉攻防戦」を含む「西南戦争」の記事については、「西南戦争」の概要を参照ください。

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