五箇年理蕃計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/27 02:58 UTC 版)
そもそも山地先住民族は、オランダ人支配、鄭氏政権、清国統治の各時代を通じて服従したことはなく、支配権力も徹底的に鎮圧してまで服従させることはなかった。この点で平地先住民族が、支配権力による教化が進んでおり、異民族との交流や通婚を通じて漢民族化が進んでいたのとは対照的である。山地先住民族には、支配権力の交代も関係なく、ましては服従などは無縁の存在であった。そして新たな支配者にたいしては、自らの生活空間を侵犯する者として反感を強めていた。総督府は、「平地」の抗日ゲリラを鎮圧すると、台湾総督府は先住民族の住む山岳部への浸透をはかるため、「蕃地」に住む「蕃人」に対する政策、すなわち「理蕃」政策を模索することになる。新領土としての台湾の経営確立を急ぎたい児玉は、『野生禽獣ニ斉シ』い「蕃人」は、誘導などの緩慢な手段でなく、いきおい絶滅させるという政策を構想した。しかし、総督府参事官持地六三郎は、「蕃地」は利源の宝庫であることに着目し、「蕃人」に対しての研究と「蕃地の状況」を知悉した後、「威嚇して後撫する」方針を採用するように提案した。第5代総督の佐久間左馬太は、持地のこの提案を踏襲した。1909年(明治42年)に「五箇年理蕃計画」として5か年にわたる「北蕃」の「討伐」を開始した。佐久間の「討伐」は、以下の手順で行われた。 官庁の命令に対する絶対遵守と「隘勇線」と呼ばれる防御ライン内への侵入禁止などを内容とする帰順勧告を出す。 帰順勧告に従わない場合には「隘勇線」で塩や銃の流入を防ぎながら、「隘勇線」を徐々に前進させる。これにより、先住民族を標高3000メートル級の高山が連なる台湾中央山系に追いあげ、追いつめ、餓死か降伏かの択一を迫る。 「隘勇線」を前進させた後は、再び山嶺を開いて道路を設け、要所には火砲を配置した堡類を構築した。 先住民族がそれに抗しきれず帰順すると、抵抗手段だった銃器が押収された。 銃器を押収した地域からは軍隊が撤収し、帰順条件を維持させる作業が警察に課された。警察は、「蕃地道路」とか「警察道路」と呼ぶ道路を開き、その道路沿いに警察官吏駐在所、警戒所、分遣所を次々設置した。
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