事故の推移
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/29 19:09 UTC 版)
「東海村JCO臨界事故」の記事における「事故の推移」の解説
JCOでは1999年度に、高速増殖炉の研究炉「常陽」で使用される核燃料(濃縮度18.8 %、ウラン濃度380 gU/リットル以下の硝酸ウラニル溶液、約160リットル)の製造を請け負っていた。1999年9月、まずウランの精製作業が中旬から28日まで行われ、翌29日より硝酸ウラニル溶液の均一化作業が始まった。 9月30日、転換試験棟にてJCOの作業員たちが、硝酸ウラニル溶液を沈殿槽にバケツで流し込む作業を行っていた。午前10時35分ごろ、7杯目をバケツで流し込んだところ、沈殿槽内で硝酸ウラニル溶液が臨界となり、警報が鳴動した。沈殿槽は言わば「むき出しの原子炉」の状態となり、中性子線は建物・敷地の外にも放出された。 同11時15分、臨界事故の可能性ありとの第一報がJCOから科学技術庁に入る。そして11時52分、被曝した作業員3名を乗せた救急車が国立水戸病院(現・国立病院機構水戸医療センター)へと出発した。東海村から住民に対する屋内退避の呼びかけの広報が始まったのは、12時30分からである。なお広報に関しては、東海村村長の村上達也が、日本国政府・茨城県庁の対応を待たず独断で行った。 午後12時40分ごろ、内閣総理大臣・小渕恵三(当時)に、事故の第一報が報告される。現地では事故現場から半径350 m以内の住民約40世帯への避難要請、500 m以内の住民への避難勧告、10 km以内の住民10万世帯(約31万人)への屋内退避および換気装置停止の呼びかけ、現場周辺の県道、国道、常磐自動車道の閉鎖、JR東日本の常磐線水戸 - 日立間、水郡線水戸 - 常陸大子・常陸太田間の運休、自衛隊への災害派遣要請といった措置がとられた。 JCO社員は事故当初、誰も臨界事故を収束させようとする作業をしなかったが、現場に派遣された原子力安全委員会委員長代理の住田健二が、「私には命令権はないが、…やる気がないのであれば関係各方面に連絡して強権を発動して命令することになる。ただし、そうなれば…時間がかかるが、そんなことをやってよいのだろうか」と促した。その結果「うちが起こした事故は、うちで処理しなければならない」と、選抜されたJCO社員18人が2人1組で1分を限度に現場に向かい、冷却管の破壊、アルゴンガスを注入して冷却水を抜く、ホウ酸を沈殿槽に投入する作業を行い、連鎖反応を止めることに成功し、臨界は収束した。中性子線量が検出限界以下になったのが確認されたのは、臨界状態の開始から20時間経った翌10月1日の朝6時30分ごろであった。
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