事実上の銀本位制
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明治10〜20年代に多額の金貨が海外に流出したことや、自由鋳造の要求の減退で金貨の製造が衰退する一方で、一圓銀貨の製造高は躍進し続け明治11年(1878年)5月27日には一圓銀貨も国内において無制限の法貨と認め(明治11年太政官布告第35号)日本は事実上の金銀複本位制となり、明治9年(1876年)3月4日には金貨百圓は貿易一圓銀貨は百圓に等価(明治9年太政官布告第27号)とされており、金銀比価は1:16.17となった。しかし、金貨の流通はほとんど無く事実上銀本位制の状態であり、兌換銀行券も金準備の不備から兌換銀券の発行のみであった。 国際的な銀相場の下落に伴い、明治20年代後半には圓は金に対し明治初期の約半分に下落していた。当時大蔵大臣であった松方正義は通貨の安定を図るためには本格的な金本位制が不可欠であるとしていた。政府は通貨制度を検討するため、明治26年(1893年)10月に貨幣制度調査会を設置し、近年の金銀相場の変動の原因、金銀相場の経済に及ぼす影響、物価の動向、および貨幣制度改正および金本位制の是非などについて調査し、明治28年(1895年)7月に松方大蔵大臣に調査書を提出した。この内容は明治28年、同会発行の『貨幣制度調査会報告』に見ることができる。その結果、貨幣制度調査会では通貨制度改革の必要性を唱える者が多数を占めたが、金準備の不足から本格的な金本位制に踏み切るのは困難との意見が多数を占めていた。 折しも、日清戦争の賠償ならびに遼東半島返還に伴う代償等の合計額が銀2億3150万両(テール)と決まり、これに相当する金として、英国金貨3808万ポンドを明治28年から約3年かけて清国から受領した。明治29年(1896年)、再び内閣総理大臣に就任し大蔵大臣を兼任することとなった松方正義はこれを好機として、本格的に金本位制施行に踏み切った。
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