日本における事実上の銀本位制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/20 03:11 UTC 版)
「銀本位制」の記事における「日本における事実上の銀本位制」の解説
日本の江戸時代においては、金貨(小判)、銀貨(丁銀)、そして小額貨幣として銭貨がそれぞれ無制限通用を認められるという、いわゆる三貨制度が存在していたが、実態は東日本で主に金貨、西日本で主に銀貨が流通するというものであった。 ただし必ずしも貨幣価値が地金価値を表していたわけではなく、本位貨幣制度で理解することは難しい。室町時代の守護領国制により各地の鉱山が囲い込まれ、続く安土桃山時代においては分国法により貨幣をふくむ物資の流通が制限された。加え特に織田信長は、領地の通貨供給量がまちまちであることに着目して、領地ごとに租税納入を米にしたり鋳貨にしたり制度を変えた。悪銭も状態と相場をその都度決めて流通させた。そして江戸初期から海舶互市新例を敷かなければならないほどに長崎で金銀比価に混乱が生じ、そのまま進行して幕末まで外交問題として引きずった。このような状態にあって、貨幣の額面価値と金属価値を固定対応させるのは不可能であった。 その後1871年6月に「新貨条例」を制定し、形式上は金本位制が採用された。しかし、当時は東洋市場においては銀貨による対外支払いが一般的であったため、1円銀貨(量目は416グレイン)ならびに、当時の洋銀に相当する420グレインの量目の貿易銀を発行し、貿易などの対外支払用貨幣として使用した。 1878年には1円銀貨の国内一般通用が認められ、事実上の金銀複本位制となったが、金貨の退蔵と政府不換紙幣の大量発行によって、金貨はほとんど流通しなくなった。さらに松方デフレ後の1885年には、初の日本銀行券(大黒図案の100円、10円、1円の兌換銀券)による銀兌換が開始され、1897年に正式に金本位制を採用するまで、事実上の銀本位制が継続した。第一次世界大戦後の活況期では金本位制を離脱するも銀貨が流通。1930年の金解禁が失敗して再禁止となってからは管理通貨制度に移行して今日に至っている。ただし1960年代まで100円硬貨は銀貨であった。 詳細は「日本の銀貨」を参照
※この「日本における事実上の銀本位制」の解説は、「銀本位制」の解説の一部です。
「日本における事実上の銀本位制」を含む「銀本位制」の記事については、「銀本位制」の概要を参照ください。
- 日本における事実上の銀本位制のページへのリンク