中里遺跡
中里遺跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 23:37 UTC 版)
中里遺跡は東京都北区上中里にある縄文時代から近世以降にかけての遺跡である。鉄道敷地内にあり、上中里駅から田端駅にかけて約1.1kmに及ぶ。多数の土器、丸木舟、土器片錘などが出土している。隣接する用地に中里貝塚がある。 東北新幹線建設予定地となった上中里駅東方の国鉄用地は、それまで遺跡は確認されていなかったが、中里村貝塚の故地を斜めに通るため、地下に遺跡が眠っている可能性があった。1982年1月、東京都教育委員会は国鉄東京第一工事局に新幹線建設用地内の文化財調査について協議を申し入れた。1982年4月から試掘調査が行われ、上中里駅から田端駅方向に約1.1 kmの範囲にわたって遺跡および植物遺体が確認された。1983年4月に東北新幹線中里遺跡調査会が発足し、1984年10月までの2年間発掘調査が行われた。発掘は急ピッチに進められ、終了した地区から新幹線建設が行われていった。中里遺跡から出土した遺物は、北区飛鳥山博物館に保管・展示されている。中里遺跡のあった場所は現在、東北・上越新幹線高架と新東京新幹線車両センターになっている。 約6000年前の縄文海進の海水準最高期、赤羽 - 上野間には侵入した海によって海食崖が形成されていた。中里遺跡のある崖線直下からは標高3mの位置にこの時期の波食台が見つかっており、海食崖下には侵食による岩屑も認められる。海よりでは有楽町層の灰色粘土層が堆積し、ここに約100mにわたって厚さ約30cmのハマグリとカキを主体とする貝層が形成された。その後海岸線が後退して中里は三角州をともなう湿地となり、多量の流木を含む泥炭層を堆積させた。 波食台の上に堆積した砂礫層、砂層、粘土層、泥炭層からは縄文時代早期中葉から後期中葉までのさまざまな土器が出土している。最も多く出土したのは縄文時代中期中葉から末 (4500-4000年前) にかけてで、この時期の集石遺構も出ている。土器片錘(網の錘として再利用した土器片)や、後述の丸木舟も出土しており、ここが縄文人の漁労活動の場であったことを示している。この地域は陸化していき、古墳時代以降は完全な陸地になって人々の活動の痕跡が見つかるようになる。中里遺跡から出土した古代の遺構・遺物は、豊島郡衙であるとされる背後の台地上の御殿前遺跡との関連が、中世の遺構・遺物は台地上の平塚城址を本拠地の一つとした豊島氏との関連が指摘されている。
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