中里遺跡とは? わかりやすく解説

中里遺跡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/08/02 11:04 UTC 版)

中里遺跡(なかざといせき)




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中里遺跡

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中里貝塚」の記事における「中里遺跡」の解説

中里遺跡は東京都北区上中里にある縄文時代から近世以降にかけての遺跡である。鉄道敷地内にあり、上中里駅から田端駅にかけて約1.1kmに及ぶ。多数土器丸木舟土器片錘などが出土している。隣接する用地中里貝塚がある。 東北新幹線建設予定地となった上中里駅東方国鉄用地は、それまで遺跡確認されていなかったが、中里村貝塚故地斜めに通るため、地下遺跡眠っている可能性があった。1982年1月東京都教育委員会国鉄東京第一工事局新幹線建設用地内の文化財調査について協議申し入れた1982年4月から試掘調査が行われ、上中里駅から田端駅方向に約1.1 km範囲わたって遺跡および植物遺体確認された。1983年4月東北新幹線中里遺跡調査会発足し1984年10月までの2年発掘調査が行われた。発掘急ピッチ進められ終了した地区から新幹線建設が行われていった。中里遺跡から出土した遺物は、北区飛鳥山博物館保管展示されている。中里遺跡のあった場所は現在、東北・上越新幹線高架新東京新幹線車両センターになっている。 約6000年前縄文海進海水準最高期、赤羽 - 上野間には侵入した海によって海食崖形成されていた。中里遺跡のある崖線直下からは標高3m位置にこの時期波食台が見つかっており、海食崖下には侵食による岩屑認められる。海よりでは有楽町層の灰色粘土層が堆積し、ここに約100mわたって厚さ約30cmのハマグリカキ主体とする貝層形成された。その後海岸線後退して中里三角州をともなう湿地となり、多量流木を含む泥炭層堆積させた。 波食台の上堆積した砂礫層、砂層、粘土層、泥炭層からは縄文時代早期中葉から後期中葉までのさまざまな土器出土している。最も多く出土したのは縄文時代中期中葉から末 (4500-4000年前) にかけてで、この時期集石遺構出ている。土器片錘(網の錘として再利用した土器片)や、後述丸木舟出土しており、ここが縄文人漁労活動の場であったことを示している。この地域は陸化していき、古墳時代以降は完全な陸地になって人々活動痕跡が見つかるようになる。中里遺跡から出土した古代遺構・遺物は、豊島郡衙であるとされる背後台地上の御殿遺跡との関連が、中世遺構・遺物台地上の平塚城址を本拠地一つとした豊島氏との関連指摘されている。

※この「中里遺跡」の解説は、「中里貝塚」の解説の一部です。
「中里遺跡」を含む「中里貝塚」の記事については、「中里貝塚」の概要を参照ください。

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