中根鎭夫が市長に就任
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「岡崎市立城北中学校」の記事における「中根鎭夫が市長に就任」の解説
1980年(昭和55年)6月27日、衆院選をめぐり岡崎市長の内田喜久が公選法違反容疑で逮捕された。8月17日、内田の辞職に伴う市長選挙が行われ、前県議の中根鎭夫が初当選した。さらに8月20日から9月11日にかけて、市内5つの土建業者の社長が内田に対する贈賄容疑で逮捕され、唐沢町の業者社長も同容疑で書類送検された。岡崎市議会は25人の逮捕者を出し、リコール運動に追い詰められ、9月17日に自主解散した。 鈴村は腐敗した内田市政と密着した教育行政を行っていたことから進退が注目されたが、9月30日の任期満了をもってそのまま退任する道を選んだ。教育の現場は「これで自由な意見が出せる」と開放的な空気に包まれるが、喜びも束の間、反内田を旗印に掲げていたはずの中根が鈴村に再任を要請。11月の市議会臨時会で鈴村は三たび教育長の職に就いた。中根は鈴村らの推し進める強権的指導法を是認した。 1981年(昭和56年)3月7日の土曜日、私立高校への進学が決まっていた城北中学校3年生の男子生徒が下校後、担任から電話で呼び出された。6人の教師たちは、文房具を万引きした疑いがあるとして男子生徒を追及。1時間半にわたり「集団指導」と称する査問を行った。男子生徒は午後5時40分頃に再び下校。5時54分、名鉄の岡崎公園前駅ホームから電車に飛び込み、自殺した。ちょうど教育の「岡崎化」という言葉がささやかれていた頃でもあり、毎日新聞は同年4月20日から「教育を追う」と題した記事を30回連載し、この事件を大きく取り上げた。 しかし当局者が市民に対して自殺の原因について何ら説明をしなかったため、名古屋オリンピック招致反対市民運動を牽引していたスポーツ社会学者の影山健を動かすこととなった。影山は実情の調査を促す運動が必要と考え、1982年(昭和57年)3月、「岡崎の教育を考える会」(略称:市民の会)を発足させた。
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