中村 (伊丹市)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/16 19:13 UTC 版)
中村 | |
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国 |
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都道府県 |
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市町村 |
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人口 (2019年(令和元年)6月30日推計) | |
• 合計 | 0人 |
等時帯 | UTC+9 (JST) |
郵便番号 |
664-0838 |
中村(なかむら)は、兵庫県伊丹市の大字。住居表示は実施していない。郵便番号664-0838。
地理
伊丹市北東部、猪名川東岸の一角で大阪国際空港に隣接する地域。北を下河原、東を小阪田、南東を大字西桑津、南を桑津、南西を大字東桑津、西を北河原、北西の一点で北伊丹と接する。
かつて存在したバラックは全て撤去され、整備事業が実施されている[1]。2019年(令和元年)6月30日以降の人口は0人[2]。
地名の由来
鎌倉時代からの荘園名に由来する[3]。旧川辺郡神津村の大字となった際は「中」とせずに「村」を残して「中村」とした。なお、1964年(昭和39年)に解村し、小阪田に編入されている地域は、現存する大字中村と区別するため「旧中村」と呼ぶ場合がある[4]。
歴史
1937年(昭和12年)の大阪第二飛行場(現在の大阪国際空港)建設工事に際して銅鐸が出土しており、弥生時代から集落が形成されていたと推定されている[5]。「中村」の地名は鎌倉時代より荘園として記録されており、多田院に当地の私領田より法花読踊僧膳供料が寄進されていたという[3]。
江戸時代には幕府領、武蔵国岩槻藩領(飛地)、同岡部藩領(飛地)などを経て1746年(延享3年)に田安家領となった[3]。1889年(明治22年)の町村制施行により神津村の大字となる。1937年に大阪第二飛行場、後の大阪国際空港が開港して以降、拡張工事により用地収用が繰り返される。1947年に神津村が伊丹市へ編入された後、1964年に解村式が行われる[3]。この際、中村の鎮守であった素盞嗚神社は近隣の桑津神社へ合祀された。また、法性寺は市内の中野へ、来恩寺は昆陽へそれぞれ移転した。
在日韓国・朝鮮人集団移転問題
1935年(昭和10年)に開始された、大阪第二飛行場の建設工事に際して、建設に従事した朝鮮半島出身者の飯場が、空港の北西に設けられ、戦後も多くの在日韓国・朝鮮人が当地に留まり、集落を形成していた[6]。当該地区は大阪国際空港の国有地に当たり、日本国政府は「不法占拠である」として、立ち退きを要求していたが、2001年(平成13年)より伊丹市および兵庫県、国土交通省が住民と協議を行い、近接する桑津4丁目の市営住宅へ全員が転居することで合意が成立。2009年(平成21年)に全世帯の移転が完了し、跡地に記念碑が建立された[7]。
脚注
参考文献
関連項目
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北伊丹 | 下河原 | ![]() | |
北河原 | ![]() |
小阪田 | ||
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東桑津 | 桑津 | 西桑津 |
「中村 (伊丹市)」の例文・使い方・用例・文例
- 中村さんですよね
- 後藤投資株式会社のシステム二課の中村と申します。
- 中村さんは東京ではしご酒をした。
- 中村さんはご在宅ですか。
- 大阪の中村さんから料金受信人払いの電話が入っています。お受けになりますか。
- 会は中村氏の司会で開かれた.
- 中村は反則で退場となった.
- (内線で)中村はただ今会議室におります. そちらへ電話をお回しいたしましょうか.
- 中村何とかといったっけ.
- タイムアップ寸前に中村がワンゴールを決めた.
- 中村字根岸
- 秀吉は尾張中村で産声を揚げた
- (江戸時代)江戸三座という,中村座と市村座と森田座の三劇団
- 中村市という市
- 中田英(ひで)寿(とし)選手,中村俊(しゅん)輔(すけ)選手,小野伸(しん)二(じ)選手,稲本潤(じゅん)一(いち)選手がヨーロッパから戻り,代表チームに加わった。
- 秋(あい)穂(お)巧(たくみ)(中村獅(し)童(どう))は,1年前,妻の澪(みお)(竹内結(ゆう)子(こ))を失った。
- 最も高い技量を持つ最後の挑戦者は日本人格闘家,田中安(あん)野(の)(中村獅(し)童(どう))だ。
- そのリストには,ミッドフィルダーの中田英(ひで)寿(とし)選手,中村俊(しゅん)輔(すけ)選手,小野伸(しん)二(じ)選手らがいる。
- 歌舞伎俳優の中村勘(かん)三(ざぶ)郎(ろう)さんはその団体の発起人の1人だ。
- 開会式の選手宣誓で,三重高校の中村浩(ひろ)樹(き)主将は「全力プレーで日本中を熱くします。」と誓った。
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