中央準備委員会の第7回総会
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「第2バチカン公会議」の記事における「中央準備委員会の第7回総会」の解説
1962年6月18日、最終総会である中央準備委員会の第7回総会が開かれた。 この最終会議の2日前、中央準備委員会は対立関係にある2草案を討論する。一つは、オッタヴィアーニが直接作成した神学委員会の「教会と国家との関係と宗教的寛容」に関する草案である。もう一つはベアのキリスト教一致促進事務局による「信教の自由」草案である。 枢機卿たちは2つの陣営に分かれて激論を交わした。オッタヴィアーニ草案の中心にある関心事はカトリック信仰の保護であり、真の宗教における市民全員の一致に基礎をおいた世俗の共通善の保全であった。自由とは、真理と善徳のためであって、誤りや悪のためにあるのではない。ベア草案では、すべての場合とすべての人々に信教の自由が適用されるとした。イタリア系、スペイン系、ラテン・アメリカ系の教父らはオッタヴィアーニの草案に賛成し、アメリカ、イギリス、ドイツ、オランダ、フランスの教父たちはベアの草案を支持して、委員会は真っ2つに分かれた。 この準備委員会はほとんどが教皇庁職員によって編成されていたが、彼らの手で73にのぼる公会議文書の草案が完成した。この委員会は多くの草案を変更し、不採用にした草案もあり、教会法改訂委員会に送り返されたり、他の草案と合併したものもあった。件数は圧縮され縮小され 73から 20に減った。 7月13日、草案の内、公会議で討議されるべき7つが将来の公会議教父たちに送付された。スキレベークス神父はこの草案を厳しく批判しドイツ語圏の司教たちに広く配布した。これは各国語に訳されて広く読まれた。 7月20日、中央準備委員会の職務は終了した。公会議には枢機卿団、司教団や修道会の長上と顧問神学者団以外にも、歴史上初めて、オブザーバーとしてプロテスタント諸教会や東方正教会の代表者たちに参加が要請された。実際にそれらの代表団がバチカンに到着したことで、議題の一つであった教会の一致(エキュメニズム)へ向けた機運も高まっていった。 前述の人々を含む会議の参加者は史上空前の規模で、予定参加者は実に2908人に及んだ。実際に第1会期の初日に参加できたのは2540人であり、全日程に参加した人数は2100人から2300人前後になったが、それ以外にも投票権を持つ参加者 (公会議教父) が私的な顧問として招聘した神学者たちや随員を含めると、参加者と関係者の合計は膨大な数に上っていた。
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