中央ムスリム委員部
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「民族問題人民委員部」の記事における「中央ムスリム委員部」の解説
1918年1月初頭から7月28日までの人民委員部全体の予算内訳民族委員部ルーブルムスリム 53万7487 ポーランド人 43万8125 リトアニア人 27万9678 ユダヤ人 23万4225 白ロシア人 18万9866 ラトビア人 14万 アルメニア人 8万 ウクライナ人 4万1600 キルギス人 2万8000 1918年2月1日にムッラヌル・ヴァヒトフを議長、ガリムジャン・イブラギモフ(ロシア語版)、シェリフ・マナトフ(バシキール語版)(そしてスルタンガリエフ)を副議長として組織された「内地ロシア中央ムスリム委員部」は、ロシアに散在するテュルク系ムスリム諸民族を一括している点で、民族問題を領土的自治問題とみるボリシェヴィキの公式見解からは逸脱した存在であった。にもかかわらず中央ムスリム委員部が組織されたのは、憲法制定議会(英語版)内の「ムスリム社会主義フラクション」をボリシェヴィキに引き寄せ、ひいてはムスリム大衆の支持を取り付けるためである。 委員部の機構は幾度も廃統合されたが、1918年夏の時点でも労働・農業・教育・出版・財政・軍事・国際宣伝の業務部とバシキリア、カフカース、クリミア、トルキスタン、キルギジアの地域部が存在し、その広範な権能は政府の中の政府に発展する可能性を帯びていた。一方で、委員部の地域部にタタールスタンが含まれていないのは、ヴァヒトフやスルタンガリエフらタタール人活動家の「啓蒙される必要のない進んだ民族」としての自負の現れであるとも指摘される。 委員部のなかでもムスタファ・スプヒ(トルコ語版)を部長とする国際宣伝部は「外務省」や「インターナショナル」のような様相を呈し、出版部と協同してトルコ語・タタール語・アラビア語・ペルシア語などで宣伝を行った。ユダヤ人委員部と協同してのポグロム問題解決やザカフカースの活動家と協同しての三月事件(英語版)の真相究明も実施した。また、ヴァヒトフは国際宣伝部にムスリム東方諸国での中央ムスリム委員部支部開設の任を負わせるという、コミンテルン東方部の先駆けとも言うべき構想を示していた。国際宣伝部の関心はとりわけアナトリアに対して強く、スルタンガリエフとスプヒは在ロシア・トルコ人による共産党を組織させ、さらにオスマン帝国軍捕虜を中心とした二個義勇中隊も編成させた。 しかし、イスラーム世界での二重権力の出現を恐れたボリシェヴィキ中央は、11月頃から中央ムスリム委員部に対する統制を強めていく。軍事部は軍事人民委員部 (ru) に従属する存在とされ、ロシア全土60都市に組織されていたソビエト附属ムスリム委員部は、他の民族も含めた部に降格された。やがて中央ムスリム委員部はタタール・バシキール委員部に改組され、さらに北カフカース部、トルキスタン部、ダゲスタン部、ザカフカース部、キルギス部などに細分化された。
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