中堀由希子とは? わかりやすく解説

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中堀由希子

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なかほり ゆきこ

中堀 由希子
生誕 1971年11月14日[1][2]
日本 愛知県岡崎市高隆寺町字五所合3番地1 市立岡崎病院(現・岡崎市民病院[1]
死没 (1993-01-12) 1993年1月12日(21歳没)[3][4]
日本 愛知県名古屋市中村区道下町三丁目35番地 名古屋第一赤十字病院(現・日本赤十字社愛知医療センター名古屋第一病院[5][6]
死因 病死骨髄移植に伴う移植片対宿主病による肝不全[5][6]
住居 日本 愛知県岡崎市[7]
国籍 日本
教育 岡崎市立六名小学校卒業
岡崎市立竜海中学校卒業
光ヶ丘女子高等学校卒業
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中堀 由希子(なかほり ゆきこ、1971年昭和46年〉11月14日 - 1993年平成5年〉1月12日)は、骨髄バンクキャンペーンガールとして活動した日本の女性[8][9]愛知県岡崎市出身[1][2]。18歳で慢性骨髄性白血病を発病してのち、各地を行脚しての講演やテレビ出演などを通して、骨髄バンクへのドナー登録を訴えた[8][10]1992年(平成4年)11月13日、日本で初めての海外からの空輸によって骨髄移植を受けたが、合併症を発症し、移植後60日で死去した[3][6]

死後の1993年夏、毎日放送による骨髄移植啓発キャンペーン「10万人目の奇跡」の一環として、由希子の映像を使用したスポットCMが放映されたところ、ドナー登録に関する問合せが急増し、全国展開後は登録者数が急増するなど、大きな反響があった[11]

1994年(平成6年)には、生前にも取材を行っていた遠藤允のルポルタージュ『21歳の別離』(にじゅういっさいのわかれ)が刊行され、同年には毎日放送によってテレビドラマ化された[12]。同年には、由希子を主人公とする愛本みずほ少女漫画由希子 -輝くいのち-』が刊行された[13]

生涯

発病まで

1971年昭和46年)11月14日9時54分、愛知県岡崎市の市立岡崎病院(現・岡崎市民病院)にて、父・徳行と母・千香子のもと、長女として生まれる[1][注 1]。出生時には健康に問題はなかったが、退院後に39度台にもなる熱を頻繁に出すようになり[1]、保育園児だった3歳時には、細菌性の髄膜炎に罹患して入院している。ただしこれ以降は、野外で長時間を過ごしたときのほか、発熱や身体のだるさはほぼ見られなくなった[14]

1978年(昭和53年)4月、岡崎市立六名小学校に入学。小学校時代は一貫して、明るくユーモアがあり、放課後の遊びの際には常に中心にいる存在だった[15]1984年(昭和59年)4月、岡崎市立竜海中学校に入学し[16]、進路先はカトリック系の私立女子高校である、光ヶ丘女子高等学校を選択した[17]

高校2年生の夏休みには、光ヶ丘女子高と姉妹校である、ニュージーランドセイクレッド・ハート女子高等学校英語版に短期留学し、3週間のホームステイを体験した[18]。この体験を契機として、卒業後のニュージーランド留学を志向するようになる。学校の規定で、留学する生徒は留学後の進路先を決めておく必要があったため、旅行事務などを学ぶ名古屋市国際観光専門学校名古屋校への入学を決めて、留学の資格を得た[19][20]

留学先で発病

1990年(平成2年)3月、光ヶ丘女子高等学校を卒業。4月から、光ヶ丘を含む日本の女子高校3校と提携して卒業生を受け入れているニュージーランドのサザンクロス語学学院にて、学院紹介の家庭でホームステイをしつつ、1年の留学生活を送ることとなった[21]。4月2日に日本を発ち、翌日にクライストチャーチに到着、留学生活に入った[22]

しかし到着直後から体調は優れず、5月頃からは少し走るだけで息切れがするなど、疲労感が顕著になった[23]。10月11日のバスハイキングからの帰宅後には、頭痛と発熱が現れ[21]、その後も体調が回復しなかったため、10月18日にホストマザーとともにクライストチャーチ中央病院を訪れて血液検査を受けたところ、白血球数が通常の約100倍の47万9,000に達していることが判明し、慢性骨髄性白血病との診断を受けた[24]

これにより急遽入院となり、白血球の除去手術を実施[25]。11月3日に帰国し[26]、11月5日、名古屋第一赤十字病院(現・日本赤十字社愛知医療センター名古屋第一病院)に入院した[27]。しかし自覚症状はなく、患者とは思われないほどに元気で、殆ど寝ていることはなく、売店や公衆電話の辺りにいたり、突如として友人と会うため外出したりしており、外泊日数も85日間の入院期間中、計8回・36日間に及んでいる。翌1991年(平成3年)1月28日に退院し、2月5日に東海骨髄バンクに患者登録した[28]

骨髄バンク運動へ

1991年(平成3年)9月10日、白血球が再び50,000近くに増加したことなどから、第一日赤病院へ再入院[29]。再入院から間もなく、同じ慢性骨髄性白血病患者で骨髄バンク運動に関係している磯和夫[注 2]を同室の患者から紹介され、磯から、テレビに出演してドナー登録を呼び掛けることを提案された[30]。また同じく慢性骨髄性白血病患者で、骨髄バンク運動に携わっている陶芸家の神山賢一[注 3]からも、回復したら骨髄バンク運動に一緒に取り組もう、との勧誘を受けている[32]。12月13日には、東海骨髄バンク理事で、母から骨髄移植を受けた元慢性骨髄性白血病患者の大谷貴子と、磯の仲介で会うこととなり、初めて顔を合わせている[34]

こうした経緯から由希子はマスコミへの露出を承諾し[35]1992年(平成4年)1月24日に、骨髄移植推進財団が作成したドナー募集PRビデオの最初のものとなる『いのちの絆』のための撮影が行われた[36]。4月には、福島県郡山市の郡山商工会館と郡山駐屯地、さらに岐阜県のシンポジウムで立て続けに講演の依頼があり、初めての講演を行った郡山商工会館での講演を皮切りに、ドナー登録を訴えた[37]。郡山駐屯地では、出席者だった業務隊長が、由希子の話を聞いて協力を申し出、その斡旋で各地の駐屯地で講演の機会を作ってもらったため、以降は「自衛隊巡り」が続くこととなった[37]

1992年1月17日には、貴子の仲介により、同年の成人式に出席した模様がテレビ愛知で放映されることとなり、これが初めてのテレビ出演となった[35][38]。これ以降、各局からの取材を受けるようになり、テレビ朝日の『ザ・スクープ』、日本テレビの『ルックルックこんにちは』、TBSテレビの『ビッグモーニング』などへの出演が続いた[38]

骨髄移植と死去

ドナー登録を訴える活動を続ける一方、由希子のドナーになることが可能な、ヒト白血球型抗原(HLA)が充分に適合している人物が、家族や親戚の中には見つからず、当時日本最大のドナー登録者数だった東海骨髄バンクでも見つけることができなかった[2]

名古屋第一赤十字病院の主治医である小寺良尚は、1991年12月に設立された日本骨髄バンクの患者登録開始(1992年6月)を待たず、アメリカ合衆国全米骨髄バンク英語版にドナー検索を依頼していたところ[39]、3月20日に二次検査までの適合ドナーがいるとの連絡があり、由希子の検体の提供などを経て、7月27日に三次検査でも適合するとの連絡が入っている[39]。小寺は費用面や由希子らの希望から、日本での骨髄移植を予定しており、全米骨髄バンクの認定病院にならなければ骨髄液が提供されないため、準備は名古屋第一赤十字病院の認定手続きと並行して行われた[39]。一方、由希子の首筋に急性転化の前兆と思われる腫瘍が現れたため、9月24日に入院、10月1日に手術を受けている[40]

移植手術は11月13日に行われた[41]。外国から骨髄液の提供を受けるのは、由希子が日本で初めての例であった[41][10]。移植は採取から24時間以内が望ましいとされていたため、運搬時間を短縮するための調整が行われ[41]、16時に成田空港へ骨髄液が到着してのち、手続きの所要時間は15分と見積もられていたところ、大蔵省関税局法務省入国管理局の措置によって、6分で処理された。また、成田から名古屋空港まで運搬のためにチャーターされたセスナ機は、名古屋空港で優先着陸できたほか、空港から病院までの運搬は、救急車の先導とパトロールカーも随伴し、予定よりも19分早い18時11分に病院に到着となった[41]

19時5分に、骨髄液は左腕から体内に注入が始まり、21時12分に完了した[42]。日本初の海外の骨髄液による移植だったため、病院にはマスコミが殺到し、20時からは記者会見が行われて、由希子からの感謝のメッセージを大谷貴子が読み上げている[42]

しかし、移植から4日目の11月17日には発熱が始まり[43]、12月4日には無菌室から個室に移り、テレビを見たり食事を摂ったりできるようになったものの[43][44]、同月からは移植片対宿主病(GVHD)が顕著に表れて、黄疸により顔や白目の部分までが黄変するようになった[45]。年が明けた1993年(平成5年)1月に入る頃には、視力を一時的に失うことが出てきたほか、夜間には幻覚を見たり、傾眠する時間が長くなったりし始めた[46]

1月11日には、左右の感覚がわからなくなり、看護婦からの質問に年齢は答えられたものの、日付や、長らく世話になった看護婦の名前を思い出せなくなっていた。15時に眠りに入り、以後は目覚めることはなく[47]、日付が変わった12日の3時35分には自発呼吸ができなくなり、移植から60日後となるこの日、3時42分に死去した[3]。死因は移植片対宿主病によって併発した肝不全[5][6]

告別式は14日、岡崎市内で催され、友人や骨髄バンクの支援者など、約300人が参列。全国から弔電や花籠が寄せられた[48]戒名浄蓮院釋尼清由[49]

死後

由希子の死後、名古屋第一赤十字病院では1993年中に、全米骨髄バンクから提供を受けた骨髄液により、2件の骨髄移植が実施された。この2件の移植により、白人からの骨髄液も日本人に生着することが証明された。また、全米骨髄バンクの認定病院になる動きが他にも出てきていることについて、遠藤允は「由希子の移植実績がなければ、これほど早くは実現しなかったにちがいない」としている[49]

啓発CM

1993年夏、TBS系放送局で、10万人の骨髄移植のドナー登録を目指す「10万人目の奇跡」キャンペーンが展開され、その一環として、生前の由希子の映像を使用した、15秒のスポットCMが制作された[2]。CMは由希子のものを含めて3種類が電通関西支社により制作され、3月から放映が開始された[11]

内容は、「中堀由希子さん 18才の時 慢性骨髄性白血病を発病」という字幕と共に笑顔の由希子が映し出され、楽しげな場面が続いたあとに、涙を流す姿と「1993年1月12日死去 享年21才」という字幕の画面となり、「あなたがその気になれば、助かる命があります」というナレーション、骨髄移植推進財団の名前と電話番号が書かれた画面で締めくくられる、というものだった[11][10]

CMの放映が始まった直後から、骨髄移植推進財団や各テレビ局には、ドナー登録の方法に関する問合せが相次いで寄せられ[2]、関西骨髄バンク推進協会への電話は、3ヶ月の放映期間中に3,500本に及んだ[11]。そして6月・7月には、大阪府京都府兵庫県では、ドナー登録の申し込み数が、通常時の4-5倍に急増した[9]

こうした反響を受けて、電通は7月末から9月にかけて、本CMを全国展開することとし、同様に大きな反響があった[9][11]。8月から9月にかけては、新聞・テレビ・雑誌などで次々にCMが取り上げられ、様々な女性週刊誌で由希子の生涯が紹介された[11]

本CMは1993年11月、全日本シーエム放送連盟(現・ACC)主催の「第33回全日本CMフェスティバル」にて、「全日本CM大賞 地域CM部門大賞」を受賞している[10][50]

21歳の別離

フリージャーナリスト・作家の遠藤允は、1994年(平成6年)3月、ルポルタージュ『21歳の別離 中堀由希子 白血病とのたたかいに青春の死をかけて』(にじゅういっさいのわかれ なかほりゆきこ はっけつびょうとのたたかいにせいしゅんのしをかけて)を、学習研究社より刊行した。遠藤は、1992年(平成4年)2月23日の東京のシンポジウムで由希子と初めて出会い、当時取材を始めていたルポルタージュ『生命をください! ルポ骨髄移植』に登場する患者の一人として、インタビューを行っている。由希子の死後、由希子の最後の状況を取材する中で、遠藤は由希子の生涯を単行本にすることを考えるに至り、3月には両親から了解を取りつけた[51]。しかし、出版を打診した出版社からの返事はいずれも芳しくなく、初秋まで決定しなかったが、上記のコマーシャルが流れて各メディアで取り上げられるようになり、ようやく学習研究社からの出版が決定。テレビドラマ化についても、急速に話が進んでいったという[51]

テレビドラマ『21歳の別離 白血病とのたたかいに青春をかけて』は、毎日放送が「10万人目の奇跡」キャンペーンの集大成として制作し、全国ネットで放映。由希子を和久井映見、その恋人を筒井道隆が演じ、2人の初共演作品となった[10]。また、大谷貴子は、自身も骨髄バンクの活動に参加している東ちづるが演じ、主題歌は由希子と交流のあった刀根麻理子が歌った[12]

1994年9月には、東京都杉並区東京都立西高等学校の文化祭で、『21歳の別離』に感銘を受けた1年B組の生徒らによって、同ルポルタージュを原作とした45分間の演劇「命のともしび」が上演された。これは、7月に由希子の記事を雑誌で読んだ女子生徒の一人が提案し、同級生らも『21歳の別離』を読んで賛成したもので、脚本は夏休み中に女子生徒が執筆し、骨髄移植財団を通して遺族の許諾も取り付けた。演劇は、9月24日・25日の計5回に渡り上演し、約300人が鑑賞した[52]

1997年(平成9年)2月22日には、「骨髄バンクを支援する愛知の会」が岡崎市の愛知県岡崎勤労福祉会館(現・岡崎市総合学習センター)で開催したコンサート内にて、愛知の会岡崎「えんじぇる」支部の会員らによって、朗読劇『中堀由希子「21歳の別離」』が上演された。[53]

催事

由希子の死後、以下のような展覧会が全国で開催されている。

  • 遺品展(1994年3月23日 - 27日) - 愛知県名古屋市中区名古屋三越で開催。主催は「名古屋骨髄献血希望者を募る会」。写真・日記・アクセサリー・自画像などを展示。大谷貴子の講演も行われた[54]
  • 「由希子 ~輝くいのち~ パネル展」(1996年4月) - 新潟県村上市のショッピングセンター「村上プラザ」で開催。主催は「にいがた・骨髄バンクを育てる会 村上支部」[55]
  • 「由希子 ―輝くいのち― パネル展」(1997年2月20日 - 3月2日) - 新潟県南魚沼郡六日町(現・南魚沼市)の六日町文化会館(現・南魚沼市民会館)で開催。主催は南魚骨髄バンク[56]
  • 写真展(1997年2月) - 愛知県岡崎市の岡崎市立図書館(現・岡崎市立中央図書館)で開催。主催は「骨髄バンクを支援する愛知の会」[53]
  • 写真展(2008年7月) - 島根県浜田市の県合同庁舎・ゆめタウン浜田で開催。主催はボランティア団体「らいらっくの会」[57]
  • 写真展(2009年8月) - 島根県松江市松徳学院高等学校で開催。主催は骨髄移植推進財団[58]
  • パネル展(2014年12月) - 島根県松江市のイオン松江ショッピングセンターで開催。主催は公益財団法人ヘルスサイエンスセンター島根[59]

その他

東京新聞』の教育・医療担当記者の久野哲弘は、由希子の移植を取材し、死後には両親に依頼して遺品の手紙やメモ類を閲覧している。そして1993年9月、『いのち煌めいて』を15回に渡って『中日新聞』『東京新聞』上に連載。1994年10月、連載記事を全面改稿した単行本『いのち煌めいて 由希子 白血病と闘った青春』(東京新聞出版局)を刊行した[60]

1994年8月9日に発売の『別冊フレンド』(講談社)9月号には、由希子を主人公とする愛本みずほの漫画『由希子 -輝くいのち-』が掲載された。発病から死去までの2年半に焦点を当てた60ページの作品である[13]。単行本は1995年9月、講談社コミックスフレンドBの一冊として刊行された。

骨髄移植に際して募金活動を展開した光ヶ丘女子高等学校では、由希子の死後も、文化祭や講演会などを通して骨髄移植の啓発活動が続けられた。1995年(平成7年)夏には、同校の奉仕活動グループ「インターアアクトクラブ」の生徒らが、骨髄移植をテーマとしたアメリカの絵本を翻訳刊行している。この絵本は、ドナーのデニス・ギディングスが著者の『凍った炎』で、名古屋第一赤十字病院が生徒らに紹介し、生徒らが半年がかりで翻訳を終えてのち、病院や地元ロータリークラブの協力で、5,000部が刊行された[61]

1998年(平成10年)には、光ヶ丘女子高の英語教諭で、卒業後も教え子の由希子と交流のあった永田俊正が、高校生向けの英語副読本『LOVE MAKES THE WORLD GO ROUND(骨髄バンク 広がれ愛のネットワーク)』(山口書店)として由希子の生涯をまとめ、刊行した。副読本は35ページの冊子で、由希子の後輩らが日本での骨髄移植を希望したロシア人青年のために募金を集め、命を救ったという実話や、編集者の計らいにより、巻末には骨髄移植の方法やドナー不足の現況などの解説も収録された。また、収益から1冊につき10円が骨髄バンクに寄附されることとなっている[62]

人物

性格は明るく積極的で、高校時代にも常に話題の中心にいる存在だった。自他ともに「かわいい」と認める容姿でもあり、当時流行していた漫画『白鳥麗子でございます!』の主人公である令嬢の物真似をして、級友を興がらせることがあったほか[63][64]、高校2年生の夏には「ロッテCMアイドル'88」のオーディションを受けたところ一次審査に合格し、名古屋地区の予選会まで出場している[63][65]

妹の久美子とは幼時から頻繁に口喧嘩をしており、白血病が発覚して帰国してのちは、病気を理由に何事も妹にやらせようとするなどしていたが、再入院ののちには妹に対して優しくなり、関係も改善された。姉と同じく光ヶ丘女子高に入った久美子が、高校卒業後の進路について医療秘書を考えていることを相談した際には、由希子も賛同した[66]。久美子は由希子の死後の1993年4月、医療事務を学ぶため名古屋市内の専門学校に進学している[49]

交友面では、1992年2月23日に東京の芝青年会館で開かれた骨髄バンク事業開始記念のシンポジウムで、歌手の刀根麻理子と知り合い[67]、以後、交友があった[68]。由希子はシンガーソングライターの福山雅治の大ファンで、妹とともにコンサートへ行ったこともあったため、刀根は由希子の骨髄移植後、福山が由希子へ宛てて吹き込んだ、激励のメッセージテープをプレゼントしている[69][70]

恋愛面では、名古屋第一赤十字病院に再入院した1991年秋、友人が見舞いに連れてきたボーイフレンドの辻井重吉(つじい しげよし)と知り合っている。辻井は当時、放射線技師を目指す東海医療専門学校2年生で[71]、以後付き合いが始まり、1992年の成人式から1週間後には、正式に交際関係となった[72]。9月には辻井とともに兵庫県神戸市へ一泊二日の旅行へ出かけ、北野坂に所在した「ジュノーの館」でウェディングドレスを着て写真撮影を行っている[73]。骨髄移植の前にも、移植に備えて移動した個室は、家族以外の面会が許されない規則であったため、大谷貴子の提案で、便宜的にではあったが婚約を取り交わした[74]。辻井は由希子の死後の1993年4月から、名古屋市内の病院で放射線技師の道に進んでいる[49]

脚注

注釈

  1. ^ 由希子の出生時、父・徳行は24歳、母・千香子は23歳。1975年(昭和50年)3月10日には、妹・久美子が生まれている[1]
  2. ^ 磯和夫は当時、東海骨髄バンクおよび全国骨髄バンク推進連絡協議会の運営委員。1989年(平成元年)2月、仕事で滞在していたアメリカで告知を受け、同年に帰国して間もなくから骨髄バンク運動に携わった[30]。由希子と出会って間もなく、43歳の誕生日である1991年(平成3年)12月27日に死去した[31]
  3. ^ 神山賢一(こうやまけんいち)は1990年(平成2年)2月に診断を受け、母親の神山清子がドナー探しを開始するとともに、賢一自身もシンポジウムで協力を訴え、1991年(平成3年)1月には、骨髄バンクと患者を結ぶ会を東京で設立した[32]1992年(平成4年)4月21日、31歳で死去。身体は遺志により献体された[33]

出典

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  2. ^ a b c d e 久野 1994, pp. 5–6.
  3. ^ a b c 遠藤 1994, p. 234.
  4. ^ 久野 1994, p. 172.
  5. ^ a b c 『毎日新聞』1993年1月12日大阪夕刊社会面11頁「愛知で初の骨髄国際間移植の21歳女性が急死」
  6. ^ a b c d 『読売新聞』1993年1月13日東京朝刊社会面31頁「海外空輸の骨髄初移植 21歳女性が急性合併症で死亡 "贈られた命" 2か月で」
  7. ^ 遠藤 1994, p. 21.
  8. ^ a b 久野 1994, pp. 5–8.
  9. ^ a b c 『朝日新聞』1993年9月2日朝刊19頁「白血病死した女性のCMに反響 骨髄バンクへの登録申し込み急増」
  10. ^ a b c d e 『読売新聞』1994年5月25日大阪夕刊9頁「白血病と闘った青春をドラマに 骨髄ドナー登録訴え逝った中堀由希子さん」
  11. ^ a b c d e f 遠藤 1994, pp. 4–6.
  12. ^ a b 『読売新聞』1994年6月20日中部朝刊社会面25頁「白血病と闘った青春 骨髄移植への思い… テレビドラマ化され今秋全国放送」
  13. ^ a b 『読売新聞』1994年8月1日東京朝刊社会面30頁「白血病と闘い21歳で逝った中堀由希子さん 献身の青春 少女漫画ヒロインに」
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  64. ^ 遠藤 1994, pp. 69–71.
  65. ^ 遠藤 1994, pp. 63–64.
  66. ^ 久野 1994, pp. 179–181.
  67. ^ 遠藤 1994, pp. 117–118.
  68. ^ 久野 1994, p. 75.
  69. ^ 久野 1994, p. 166.
  70. ^ 遠藤 1994, pp. 227–228.
  71. ^ 遠藤 1994, pp. 150–151.
  72. ^ 遠藤 1994, pp. 158–159.
  73. ^ 遠藤 1994, pp. 176–177.
  74. ^ 遠藤 1994, pp. 208–210.

参考文献

  • 遠藤 允『21歳の別離 中堀由希子 白血病とのたたかいに青春の死をかけて』、学習研究社、1994年3月30日。 
  • 久野 哲弘『いのち煌めいて 由希子 白血病と闘った青春』、東京新聞出版局、1994年10月19日。 



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