中国のたばこの歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 15:09 UTC 版)
「中華人民共和国の喫煙」の記事における「中国のたばこの歴史」の解説
たばこは中国の明代の末(嘉靖・万暦年間)にフィリピンから移入された。当時、中国人は「たばこは体にいい、風邪と発熱などの病気を治せる」と思い、そして、全国の喫煙人数は急速に増加した。しかし、清代からは次第に「たばこは体に悪い」とする観点が現れた。医師の張璐は、自著『本経逢源』の中で以下のように記した。 豈知毒草之氣,熏灼臟腑,游行経絡,能無壯火散氣之慮乎 この間、各王朝の皇帝は禁煙に関する法律と詔書などを頒布した。この中、明末の崇禎帝は二度に禁煙の命令を与えた。彼の理由は以下のようなものであった。「自分は燕王永楽帝の子孫であり、国の首都も燕都(当時北京は燕都とも称した)である。もし国内に喫煙のことがあれば、この「煙」の読みは「燕」と同じであるから、「喫煙」は「喫燕」に通じるため、避諱として禁煙せよ」 王朝が清に交代すると、第4代の康熙帝および第5代の雍正帝はたばこを禁止した。ただし、西欧列強の進出と内乱により清王朝が衰退した時期(道光・咸豊年間以降)には禁煙令は実際に無効となった。 1911年−1949年の中華民国が統治した時代に禁煙の気風はもう一度現れた。1930年代、蔣介石と夫人の宋美齢は積極的に禁煙運動を推進した。1935年5月、蔣介石は「新生活運動綱要」を発表し、「鴉片屏絶,紙烟勿吃」という条例を要求した。しかし、この運動によって、政府の税収は不足となった。結果、1935年6月15日、財政部長の孔祥熙は国家の税収を確保するため、下記の公文を発表した。 任何团体,如有假借新生活運動名義,禁止人民吸售紙烟,務応立予糾正,以維国税而安商業 このあと、民国内の喫煙は絶えた。
※この「中国のたばこの歴史」の解説は、「中華人民共和国の喫煙」の解説の一部です。
「中国のたばこの歴史」を含む「中華人民共和国の喫煙」の記事については、「中華人民共和国の喫煙」の概要を参照ください。
- 中国のたばこの歴史のページへのリンク