中世~近世:四親王家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 05:55 UTC 版)
詳細は「世襲親王家#世襲親王家(四親王家)」を参照 伏見宮は、北朝第3代崇光天皇の第一皇子栄仁親王が始祖である。第3代貞成親王(さだふさしんのう)の第一王子彦仁王が傍系にあたる称光天皇が後嗣なく崩御したことにより、正長元年(1428年)に第102代後花園天皇となって皇位を継承した。この後花園天皇が現在の皇室の男系の祖となっている。一方、貞成親王の第二王子貞常親王(後花園天皇の弟)の男系子孫は代々伏見宮を継承し、特に第20代・23代邦家親王からは多くの子孫が宮家を創設した(いわゆる伏見宮系皇族)。しかし敗戦を経て、昭和22年(1947年)に、現行の皇室典範下で臣籍降下を余儀なくされた。世襲四親王家の中では最古であり、現在の皇室並びに、以下に挙げる桂宮・有栖川宮・閑院宮は、全て伏見宮家が始祖である。 桂宮は、正親町天皇の第1皇子誠仁親王の第6王子智仁親王(としひとしんのう)によって創設された。智仁親王は、豊臣秀吉の猶子であったが、天正17年(1589年)に秀吉に実子鶴松が生まれたために縁組が解消された。秀吉の奏請により、智仁親王に所領が与えられ「八条宮」の宮号を賜ったのが始まりである。以後、「常盤井宮」「京極宮」、そして「桂宮」と改称し、明治14年(1881年)の第12代当主淑子内親王薨去まで存続した。 有栖川宮は、寛永2年(1625年)後陽成天皇の第7皇子好仁親王(よしひとしんのう)によって創設された。初めは「高松宮」と称した。好仁親王には後嗣が無く、後水尾天皇の第6皇子で親王の甥に当たる良仁親王(ながひとしんのう)が第2代を継承し、花町宮または、桃園宮と称した。ところが、承応3年(1654年)兄の後光明天皇が没したため、良仁親王は第111代後西天皇として皇位を継承した。宮家は後西天皇の第2皇子幸仁親王が継承し有栖川宮と改称された。1913年(大正2年)6月、有栖川宮威仁親王が薨去し断絶した。 閑院宮は、皇統の断絶を危惧した新井白石の建言で創設された。東山天皇の第6皇子であり中御門天皇の傍系(弟)にあたる直仁親王(なおひとしんのう)が、幕府から1000石の所領を献上され、享保3年(1718年)祖父の霊元法皇から「閑院宮」の宮号を賜った。新井白石の危惧は現実のものとなり、中御門天皇の曾孫にあたる後桃園天皇が安永8年(1779年)に後嗣なく崩御した事により、第2代典仁親王の第六王子祐宮が第111代光格天皇として皇位を継承した。先帝の傍系にあたる宮家から皇位を継承したのは光格天皇が最後であり、光格天皇の皇子仁孝天皇以後は、その男子(皇太子)が次代天皇に即位し、現在の皇室まで連なっている。 一方で宮家としては、典仁親王第一王子美仁親王(光格天皇の兄)が第3代として継承するが、その孫の第5代愛仁親王が子孫なく薨去した為、一度途絶える。その後明治時代になって、伏見宮邦家親王の王子載仁親王が第6代として継承するも、その子である第7代春仁王に再び子孫なく、臣籍降下後の昭和63年(1988年)に死去した事で絶家した。 以上、宮家出身の皇族が皇統を継いだのは、3例である。 第102代後花園天皇:伏見宮貞成親王の第1皇子。 第111代後西天皇:有栖川宮第2代当主。 第119代光格天皇:閑院宮典仁親王の第6王子。
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