中世・近世日本の橋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 10:15 UTC 版)
律令制の弛緩とともに交通路も衰退し、橋の整備も資力や技術に乏しい現地に委ねられたため、架橋技術は発達しなかった。更に治水技術の未熟からしばしば発生した雪解けや大雨に由来する増水にも弱く、船橋のような仮橋や渡し船による代替で間に合わされるケースが多かった。こうした傾向は江戸時代末期まで続き、江戸時代に多くの大河川に架橋がされなかったのも、実際には軍事的な理由とともに技術的要因による部分も大きかった。 そうした中でも特徴的な架橋の例はあり、鎌倉時代においては僧侶の勧進活動の1つとして、重源による瀬田橋や忍性による宇治橋の再建などが行われた。これは人々の労苦を救うとともに架橋を善行の1つとして挙げた福田思想の影響によるところが大きいとされている。安土桃山時代から江戸時代に入ると、都市部や街道においてようやく橋の整備が進められるようになった。江戸時代の大都市には幕府が管理した橋と町人が管理して一部においては渡橋賃を取った橋が存在し、江戸では「御入用橋」「町橋」、大坂では「公儀橋」「町人橋」と称した。また、江戸時代以前の日本では木造の橋がほとんどであったが、九州や琉球では大陸文化の影響を受け、明出身の僧侶如定による長崎の眼鏡橋の造営をはじめとする石造りの橋が多く作られるようになり、江戸時代末期に作られた肥後国の通潤橋は同地方の石工らによって様々な工夫がされたことで知られている。また、石積みの橋桁と木製のアーチを組み合わせた周防国岩国の錦帯橋など、中小河川における架橋技術の発達を示す例が各地でみられるようになった。 この他、八橋と言って、川底が浅い場所に杭を打ち、その杭の間に板を渡すという方法で作られたために、川の途中で曲がりくねった構造をした木造の橋が作られたこともあった。なお、2016年時点の日本においても「八橋」と言う地名が残っている。
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