中世・東ローマ時代とは? わかりやすく解説

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中世・東ローマ時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 06:53 UTC 版)

テッサロニキ」の記事における「中世・東ローマ時代」の解説

テッサロニキ王国」も参照 東ローマ帝国初期テッサロニキコンスタンティノープル次いで2番目に大きな都市であった考えられ、その地位1423年ヴェネツィア共和国支配代わるまで保っていた。14世紀テッサロニキ人口100,000程度で、当時ロンドン凌いでいた。 6世紀から7世紀にかけテッサロニキ周辺ではアヴァールスラヴ人侵入しテッサロニキ幾度も包囲したいずれも失敗している。これまでの歴史的な 文献では多くスラヴ人テッサロニキ後背地居住したとされるが、この移住実際にこれまで考えられてきたものより小規模なのである9世紀になるとテッサロニキ出身キュリロスとメトディオスによりスラヴ人にとっては最初文字であるグラゴル文字考案された。古代教会スラヴ語当時、このテッサロニキなどマケドニア地方話されていたスラヴ人言葉を基にしているとされている。 904年アラブ侵入によって短い間、テッサロニキ攻略された(en:Sack of Thessalonica (904))。テッサロニキ12世紀コムネノス王朝期に経済成長継続し東ローマ北へ支配広げた1204年第4回十字軍によりコンスタンティノープル包囲 (en) された時、テッサロニキ東ローマ支配離れ ラテン帝国最大隷属となった1224年テッサロニキ王国東ローマ亡命政権であるテオドロス1世コムネノス・ドゥーカスエピロス専制侯国により侵略された。テオドロス1世は自ら皇帝称し その首都となった。この時代エピロス専制国はテッサロニカ帝国としても知られていた。1230年にクロコトニッツァの戦いで打ち負かされると、エピロス専制侯国1246年に再び力が回復するまで第二次ブルガリア帝国属国で、この時ニカイア帝国であった1342年になると船員貧民による反貴族主義のテッサロニキ・ゼアロット(英語版)が隆盛し、今日では社会革命と言われている。町は事実上帝国からは独立している状態にあり ゼアロットの運動1350年打倒され、町は帝国再統合された。1423年、アンドロニクス専制公によりテッサロニキ統治されていたがオスマン帝国からの防御期待しヴェネツィア共和国割譲されている。1422年から1430年にかけオスマンにより封鎖されたが、1430年3月29日ムラト2世攻略されるまではヴェネツィア側が押させていた。テッサロニキランドマークでもあるホワイトタワーこの頃築かれたものである

※この「中世・東ローマ時代」の解説は、「テッサロニキ」の解説の一部です。
「中世・東ローマ時代」を含む「テッサロニキ」の記事については、「テッサロニキ」の概要を参照ください。

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