中世・浄土宗の檀林とは? わかりやすく解説

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中世・浄土宗の檀林

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 05:53 UTC 版)

正定寺 (古河市下大野)」の記事における「中世・浄土宗の檀林」の解説

室町時代には浄土宗鎮西流一派藤田派の檀林として発展した檀林近世の用語で学問所をもつ大規模な寺院である。中世の用語では「談義所」、「談所」、「談場」と呼ばれ、教線拡大拠点となった中枢寺院である。 浄土宗鎮西流関東三派は藤田派・名越派白旗派からなる正定寺藤田派の学問所だけではなく各派交流拠点でもあった。白旗派学僧江戸増上寺開山酉誉聖聡文書によれば聖聡正定寺立ち寄って馬を借りた際、良岌と激し法論をしている。藤田派と白旗派との交流事例のひとつと評価される。さらに正定寺歴代記した譜脈には、名越派大沢法流僧侶名も散見されることから、名越派影響受けていたと考えられる。 『本末帳写』(正定寺文書)中の正定寺歴代譜脈における28世・岌秀は、浄土宗大本山京都知恩寺29世の岌州と同一人物みなされている。永禄4年1561年)、上杉謙信北条氏康対抗するために関東出陣した際、岌州も謙信支持する関白近衛前久随行し上野厩橋城に入る。その後、前久は古河城に移るので、岌州も同行した考えられる。このとき、正定寺に近い古河城水海城拠点とする簗田晴助は、謙信のもとで足利藤氏古河公方擁立し北条氏康抵抗していた。岌州は晴助を通じて正定寺関わり持った推定される。のちの元亀3年1572年)から天正7年1579年)には、布教のため東国遍歴する。これらの岌州の活動は、大本山を争う白旗派知恩院対抗するため、上杉謙信簗田晴助たちの政治力結びつき藤田派の教線拡大行っていたもの考えられている。 戦国時代末期正定寺藤田派から白旗派転向した天正10年1581年)に寺に入ったとされる幡随意(幡随)が正定寺30世となるが、藤田派だった幡随意はのちに白旗派代表する学僧になる。幡随意は岌州と異なり北条氏照外護のもと教線を拡大し慶長7年1602年)には京都知恩寺33世となる。このときを契機として、藤田寺院白旗派転向加速された。 のちの元禄期(1688年 - 1704年)に書かれ由緒書によれば江戸時代初頭39世・良住の隠遁後に壇林途絶したとされる以後京都知恩院の門末となる。

※この「中世・浄土宗の檀林」の解説は、「正定寺 (古河市下大野)」の解説の一部です。
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