不敬事件とは? わかりやすく解説

不敬事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/04 02:42 UTC 版)

前島豊太郎」の記事における「不敬事件」の解説

創刊直後1881年明治14年10月8日寺町小川座で「事物変遷論」を演説し専制君主制から立憲君主制への移行主張したところ、「天子大賊第一等」と発言したとして臨場していた警部香取新之助等に告発され帰宅したその夜警察拘引された。 1881年明治14年10月21日静岡裁判所より伺いを立てられた司法卿大木喬任は、「著作文書若く画図肖像」のみを対象とする讒謗律第2条乗輿讒毀罪を新律綱領断罪無正条により類推適用し、12月23日静岡裁判所において禁獄3年罰金900円が言い渡された。なお、不敬罪罪刑法定主義定めた旧刑法1882年明治15年1月1日施行された。 1882年明治15年3月27日上告棄却により井宮監獄入獄し先に投獄されていた荒川高俊同室した。監獄内では定期的に囚人に『孟子』を講義し1883年明治16年2月頃からは署内使用する罫紙の摺立に従事した1884年明治17年6月同志義援金により罰金900円が完納され、1885年明治18年2月25日仮出獄した。1885年明治18年11月出獄記念し駿遠各地旅行して同志名士訪れ民衆からも歓迎受けた

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不敬事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 01:32 UTC 版)

内村鑑三」の記事における「不敬事件」の解説

詳細は「内村鑑三不敬事件」を参照 明治23年1890年)から、植村正久一番町教会長老・木駿吉の推薦により、第一高等中学校(現・東京大学教養学部千葉大学医学部薬学部)の嘱託教員となった明治24年1891年1月9日講堂挙行され教育勅語奉読式において、教員生徒順番教育勅語前に進み出て明治天皇親筆署名に対して、「奉拝」することが求められた。内村舎監という教頭に次ぐ地位のため、「奉拝」は三番目だったが、最敬礼をせずに降壇した。このことが同僚生徒などによって非難され社会問題化する。敬礼を行なわなかったのではなく最敬礼をしなかっただけなのだが、それが不敬事件とされた。 事態の悪化驚いた木下校長は、敬礼信仰とは別の問題であると述べて改め内村敬礼依頼した内村はそれに同意したが、悪性の流感かかっており本人が行けなかったので、代わりに木下駿吉が行った。しかし、マスコミがこの事件大きく取り上げ、「内村鑑三の不敬事件」として全国喧伝した。そうして、事件キリスト教国体問題進展した内村悪性の流感により病床にあり、意識不明の状態だったが、2月本人知らない間に、内村の名前で弁明書が数紙に掲載されたり、1月31日には本人の名前で辞職願い出されて、2月3日付け依願解嘱された。これがいわゆる内村鑑三不敬事件」あるいは「第一高等中学校不敬事件」である。

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