不敬事件
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創刊直後の1881年(明治14年)10月8日、寺町小川座で「事物変遷論」を演説し、専制君主制から立憲君主制への移行を主張したところ、「天子は大賊の第一等」と発言したとして臨場していた警部香取新之助等に告発され、帰宅したその夜警察に拘引された。 1881年(明治14年)10月21日静岡裁判所より伺いを立てられた司法卿大木喬任は、「著作文書若くは画図肖像」のみを対象とする讒謗律第2条乗輿讒毀罪を新律綱領断罪無正条により類推適用し、12月23日静岡裁判所において禁獄3年・罰金900円が言い渡された。なお、不敬罪や罪刑法定主義を定めた旧刑法は1882年(明治15年)1月1日に施行された。 1882年(明治15年)3月27日上告棄却により井宮監獄に入獄し、先に投獄されていた荒川高俊と同室した。監獄内では定期的に囚人に『孟子』を講義し、1883年(明治16年)2月頃からは署内で使用する罫紙の摺立に従事した。 1884年(明治17年)6月同志の義援金により罰金900円が完納され、1885年(明治18年)2月25日仮出獄した。1885年(明治18年)11月出獄を記念し、駿遠各地を旅行して同志、名士を訪れ、民衆からも歓迎を受けた。
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不敬事件
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詳細は「内村鑑三不敬事件」を参照 明治23年(1890年)から、植村正久の一番町教会の長老・木村駿吉の推薦により、第一高等中学校(現・東京大学教養学部、千葉大学医学部、薬学部)の嘱託教員となった。 明治24年(1891年)1月9日、講堂で挙行された教育勅語奉読式において、教員と生徒は順番に教育勅語の前に進み出て、明治天皇の親筆の署名に対して、「奉拝」することが求められた。内村は舎監という教頭に次ぐ地位のため、「奉拝」は三番目だったが、最敬礼をせずに降壇した。このことが同僚・生徒などによって非難され社会問題化する。敬礼を行なわなかったのではなく、最敬礼をしなかっただけなのだが、それが不敬事件とされた。 事態の悪化に驚いた木下校長は、敬礼は信仰とは別の問題であると述べて、改めて内村に敬礼を依頼した。内村はそれに同意したが、悪性の流感にかかっており本人が行けなかったので、代わりに木下駿吉が行った。しかし、マスコミがこの事件を大きく取り上げ、「内村鑑三の不敬事件」として全国に喧伝した。そうして、事件はキリスト教と国体の問題へ進展した。 内村は悪性の流感により病床にあり、意識不明の状態だったが、2月に本人に知らない間に、内村の名前で弁明書が数紙に掲載されたり、1月31日には本人の名前で辞職願いが出されて、2月3日付けで依願解嘱された。これがいわゆる「内村鑑三不敬事件」あるいは「第一高等中学校不敬事件」である。
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