上田監督時代
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「オリックス・バファローズ」の記事における「上田監督時代」の解説
1988年11月4日、正式に阪急電鉄からオリエント・リース(翌1989年にオリックスに社名変更)に球団が譲渡。球団名はオリックス・ブレーブス(ORIX Braves)、会社名は「オリックス・ブレーブス株式会社」にそれぞれ変更された(1990年9月には、現在のオリックス野球クラブ株式会社へ社名変更)。 阪急グループの娯楽事業では、阪急ブレーブス、宝塚歌劇団が、いずれも1980年代には年間8億円の赤字を出していた。ブレーブスはオリックスに売却し、自助努力で採算向上が可能な宝塚歌劇団に集中投資することになった。阪急時代には、無料券を配布して試合に客を集めていたが、鉄道収入と球場売店の売上はあった。親会社がオリックスになってから、無料券の配布は廃止された。 球団事務所はそれまでの大阪府大阪市北区角田町から、同市同区曾根崎新地に移された。球団オーナーは小林公平から宮内義彦オリックス社長に交代し、球団社長(兼球団代表)に近藤靖夫が就任した。球団幹部の一般公募を実施し、その結果として、丸善石油出身の井箟重慶が1989年には常務取締役事業本部長(のちに1990年から2000年まで球団代表)、帝人出身の金光千尋が取締役事業本部長に就任した。 球団譲渡とともに、ユニフォームは黒と赤を基調とした配色から、オリックスブルー(紺色)とブレーブスゴールデンイエロー(黄金)のデザインへ変更され、ブレーブスの赤はヘルメットの差し色に継承された。当初は、「ブレーブス」の愛称と阪急西宮球場の使用が継続されたが、1988年に完成したグリーンスタジアム神戸を準本拠地とすることも併せて発表された。グリーンスタジアム神戸は阪急時代だった1988年5月の対南海戦でも使われたが、1989年には主催試合が14試合と増加し、1990年も13試合組まれた。監督は上田が続けた。 1989年 球団譲渡後の初年度となったシーズンは開幕8連勝でスタートダッシュに成功。南海から移籍した門田博光を加えたブルーサンダー打線がチームを引っ張ったが、9月25日のダイエー戦で門田がブーマーとハイタッチした際に脱臼し戦線を離脱、投手陣の駒不足も深刻でエース佐藤義則とルーキーの酒井勉が全てのポジションを担っていたがシーズンが進むにつれスタミナ切れで失速したことが響き、優勝した近鉄にゲーム差なし、勝率1厘差の2位となった。酒井は西武の渡辺智男との新人王争いを制し新人王に選ばれた。 1990年 ブーマー・福良淳一の怪我や不調、また課題だった投手陣の整備ができず西武の独走を許す形になり2年連続の2位に終わる。上田監督が辞任し、門田は退団した。
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