上田監督時代とは? わかりやすく解説

上田監督時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 04:25 UTC 版)

オリックス・バファローズ」の記事における「上田監督時代」の解説

1988年11月4日正式に阪急電鉄からオリエント・リース(翌1989年オリックス社名変更)に球団譲渡球団名オリックス・ブレーブスORIX Braves)、会社名は「オリックス・ブレーブス株式会社」にそれぞれ変更された(1990年9月には、現在のオリックス野球クラブ株式会社社名変更)。 阪急グループ娯楽事業では、阪急ブレーブス宝塚歌劇団が、いずれも1980年代には年間8億円の赤字出していた。ブレーブスオリックス売却し自助努力採算向上が可能な宝塚歌劇団集中投資することになった阪急時代には、無料券配布して試合に客を集めていたが、鉄道収入球場売店売上はあった。親会社オリックスになってから、無料券配布廃止された。 球団事務所それまで大阪府大阪市北区角田町から、同市同区曾根崎新地移された。球団オーナー小林公平から宮内義彦オリックス社長に交代し球団社長(兼球団代表)に近藤靖夫が就任した球団幹部一般公募実施しその結果として、丸善石油出身井箟重慶1989年には常務取締役事業本部長(のちに1990年から2000年まで球団代表)、帝人出身金光千尋取締役事業本部長就任した球団譲渡とともにユニフォームは黒と赤を基調とした配色から、オリックスブルー(紺色)とブレーブスゴールデンイエロー(黄金)のデザイン変更されブレーブスの赤はヘルメット差し色継承された。当初は、「ブレーブス」の愛称阪急西宮球場使用継続されたが、1988年完成したグリーンスタジアム神戸準本拠地とすることも併せて発表された。グリーンスタジアム神戸阪急時代だった1988年5月の対南海戦でも使われたが、1989年には主催試合14試合増加し1990年13試合組まれた。監督上田続けた1989年 球団譲渡後初年度となったシーズン開幕8連勝スタートダッシュ成功南海から移籍した門田博光加えたブルーサンダー打線チーム引っ張ったが、9月25日ダイエー戦で門田ブーマーハイタッチした際に脱臼し戦線離脱投手陣の駒不足も深刻でエース佐藤義則ルーキー酒井勉全てのポジション担っていたがシーズンが進むにつれスタミナ切れで失速したことが響き優勝した近鉄ゲーム差なし、勝率1厘差の2位となった酒井西武渡辺智男との新人王争い制し新人王選ばれた。 1990年 ブーマー福良淳一怪我不調、また課題だった投手陣整備ができず西武独走を許す形になり2年連続2位に終わる。上田監督辞任し門田退団した

※この「上田監督時代」の解説は、「オリックス・バファローズ」の解説の一部です。
「上田監督時代」を含む「オリックス・バファローズ」の記事については、「オリックス・バファローズ」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「上田監督時代」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「上田監督時代」の関連用語

上田監督時代のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



上田監督時代のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのオリックス・バファローズ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS