上田秋成との論争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 04:27 UTC 版)
日本書紀を「漢意のふみ」とし、大陸の強い影響などを糾弾していた。 宣長は天明6年(1786年)から翌年頃まで上田秋成と二度にわたって論争した。その結果を、宣長は「呵刈葭(かがいか、あしかりよし)」前後編の著作で、秋成は「安々言(やすみごと)」という形で著した。前編「上田秋成論難同弁」は、主として音便などの言語上の問題についての論争であり、後編「鉗狂人上田秋成評同弁」は「日の神論争」ともいわれ日本神話の解釈をめぐる論争である。
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