ワーグナーの芸術観の投影
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 19:18 UTC 版)
「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の記事における「ワーグナーの芸術観の投影」の解説
第1幕第3場において、ヴァルターの「資格試験の歌」をベックメッサーは「歌の区切りも、コロラトゥーラも、旋律の片鱗さえもない」と酷評する。これは、ワーグナー自身が現実に浴びた言葉である。マイスタージンガー組合の伝統に挑み、激しく拒絶されるヴァルターには、音楽界の既成の壁に立ち向かったワーグナー自身の姿が投影されている。ワーグナーは、自著『パスティッチョ』(1834年)でコロラトゥーラを「何の意味もない音型」としてイタリアオペラを批判していた。また、ワーグナーの楽劇に対する「旋律の片鱗さえもない」との批判に対し、『未来音楽』(1860年)において、旋律とは「果てしなく続く一本の流れのように作品の隅々まで浸透する無限旋律」であり、「旋律と並んで無旋律の時間が長く続く絶対旋律」(『オペラとドラマ』)ではないと反論していた。 一方、ヴァルターにマイスター歌の手ほどきをするザックスもまたワーグナー自身であるといえる。作曲の経過で述べたように、ワーグナーは自分とマティルデ・ヴェーゼンドンクを本作のザックスとエファに見立てていた。劇中でザックスがエファへの思慕を絶って諦念の境地に至る過程には、ワーグナー自身の心境が重ねられている。同時に、「生への盲目的意志」を否定して「諦念」に至る点において、ここでもアルトゥル・ショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』からの影響が指摘されている。また、ザックスは第3幕第2場において、「似合いの夫婦から生まれる子供(A - A' - B)」の比喩を使ってマイスター歌のバール形式を説明するが、この論法は、ドラマの誕生を愛で結ばれた男女の生殖行為に喩えたワーグナー(『オペラとドラマ』)の音楽理論をふまえている。 こうして、どちらも作曲者ワーグナーをモデルとした両者が第3幕において導き、導かれながらマイスター歌を誕生させる場面は、天才の着想と意志が形式と融合、凝縮されて不朽の芸術を創造するという、ワーグナーにとっての音楽の一つの理想が描かれていると解釈されている。
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