ロハス政権(1946年-1948年)
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フィリピン議会が1945年に招集されると、1941年に選出された議員は、元老院代表にマニュエル・ロハスを選んだ。1946年のフィリピン全国選挙(英語版)でロハスは国民党のリベラル派の候補として大統領選に立候補した。マッカーサー将軍の信頼に足る支援があった。対立候補はフィリピン人民はロハスの評判を知っていると言いながら選挙戦を辞退したセルヒオ・オスメニャであった。1946年4月23日の選挙でロハスは54%の票を獲得し、自由党は議会の多数を占めた。フィリピンが1946年7月4日にアメリカ合衆国から独立すると、ロハスは新共和国の第一代大統領になった。 ロハスは独立後にアメリカ合衆国から復興基金を得ることに成功したが、軍事基地(その内の23か所は99年間租借される)やフィリピン市民のための貿易の制限、アメリカ合衆国の所有者や投資家のための特別な恩恵を容認せざるを得なかった。この政権は汚職で損なわれ、更に地方の憲兵隊の侵害行為で農村部での左翼のフクバラハップ(フク団)運動を加速させることになった。フク団を押し潰そうという高圧的な企図は、広範な農民の不満につながった。[要出典] ロハスの任期中にタートル群島(英語版)やマングシー群島(英語版)の政権がイギリスによりフィリピンに移行された。(当時の海外領土(フィリピン群島)に関して)アメリカ合衆国と(当時の保護領(北ボルネオ国)に関して)イギリスが1930年に締結した国際条約により両大国はそれぞれの領土の国際的な境界に合意した。この条約でイギリスもマングシー群島同様にタートル群島がフィリピン群島の一部であり従ってアメリカ合衆国の主権下にあることを受け入れた。しかし同時に締結した補足の国際条約により両大国はフィリピン群島の一部であるがこの群島は依然北ボルネオ国の北ボルネオ会社の管理下に置くことに合意した。補足条約はアメリカ合衆国がアメリカ合衆国へのこの群島の管理権の移行を求めてイギリスに予告しない限り予告するまで北ボルネオ会社がこの群島を管理し続けると規定した。アメリカ合衆国はこのような予告をすることは決してなかった。1946年7月4日、フィリピン共和国が誕生した。1930年の条約に基づきアメリカ合衆国の権利・義務を継承した。1946年7月15日、イギリスは北ボルネオ国を併合し、イギリスの観点では北ボルネオ国であったものに関しては主権国となった。1946年9月19日、フィリピン共和国はタウィタウィ州タートル群島(英語版)とマングシー群島の管理を引き継ぐ意思があるとイギリスに知らせた。補足の国際的合意に従って管理権の移行は、1947年10月16日に発効することになった。 1848年4月15日にクラーク空軍基地で演説中に心臓発作を起こしたためにロハスは長く大統領職に留まらなかった。エルピディオ・キリノ副大統領が次代の大統領になった。
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