ロックの誕生と沈滞-1950年代半ば
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「ポピュラー音楽」の記事における「ロックの誕生と沈滞-1950年代半ば」の解説
リズム・アンド・ブルースは白人の若者をも熱狂させたが、これを見た白人の一部がリズム・アンド・ブルースの感覚を取り入れる動きが見られ始める。白人のビル・ヘーリーは54年に「シェーク・ラトル・アンド・ロール」と「ロック・アラウンド・ザ・クロック」を録音したが、前者は先のビッグ・ジョー・ターナー、後者はソニー・デーのレコードの模倣で、どちらもオリジナルは黒人であった。「ロック・アラウンド・ザ・クロック」は翌55年に映画「暴力教室」に用いられ、大ヒットとなった。 同じ54年にはメンフィスの電機会社の運転手だったエルヴィス・プレスリーが地元の小さなレコード会社から「ザッツ・オール・ライト・ママ」を出したが、これも黒人のアーサー・クルーダップの作品であった。 こうして生まれてきた新しい音楽は、ラジオのディスク・ジョッキーをしていたアラン・フリードによって「ロック・アンド・ロール」と呼ばれた。ロックの誕生である。 ロックは、リズム・アンド・ブルースの要素が一番強く、そこにヒルビリーやポピュラー・ソングの要素が融合して生まれた。先のヘーリーやプレスリーはヒルビリーの要素が強く、またプレスリーは好きな歌手としてフランク・シナトラを挙げており、ポピュラー・ソングの伝統も受け継いでいる。このため、ヒルビリーの要素が強いと「ロカビリー」(ロック+ヒルビリー、プレスリーなど)、ポピュラー・ソングの要素が強いと「ロカバラード」(ロック+バラード、ポール・アンカなど)などの派生語が生まれたため、60年代になると、それらの全体を呼ぶ言葉がロック、1950年代中葉の初期のロックを指す言葉がロックンロール、と使い分けるのが一般的となった。 ロックは、命名者であるアラン・フリードやプロモーターの尽力によって、独立系小レーベルでレコード化されたが、経済的に恵まれるようになっていた10代の若者に想像をはるかに超える支持を受けた。 大手レコード会社もさっそくこのジャンルに目をつけ、プレスリーは早くも大手のRCAレコードに引き抜かれ、56年には「ハートブレイク・ホテル」の大ヒットを生んだ。プレスリーは「史上最も成功したソロ・アーティスト」(ギネス・ワールド・レコーズ)とされ、全米No1ヒット曲数歴代2位、週間数歴代1位など、記録には事欠かない。その後を追って誕生したのが先の「ロカバラード」で、これは旧来のメイン・ストリームの「プロの作詞家・作曲家がヒットをねらって書いた曲でレコードを作り、ラジオやテレビなどのメディアでうまく宣伝して広めていくという商業主義」そのもので作られた。 ロックの誕生は「白人の若者の欲求不満を白人文化では吸収しきれなくて黒人文化に頼らざるをえず、黒人底辺文化の価値観を白人若年層が大幅に取り入れたという、前例をみないラディカルな社会現象だった」と世界大百科事典の「ロック」の項で中村とうようが評しているが、せっかく誕生したロックはこうしてすぐに商業主義に取り込まれてしまった。ロックの立役者だったフリードも、音楽業界から放送関係者に贈られていたペイオーラが賄賂とされ、59年と60年に連邦議会(下院)で開かれた聴聞会で疑惑の張本人として取りざたされ、大スキャンダルとなった。こうした事情から、ロックンロールの全盛期は54年から59年までの5年間しか続かなかった。
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