レヴィットタウン(ニューヨーク)の建設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/27 08:17 UTC 版)
「ウィリアム・レヴィット」の記事における「レヴィットタウン(ニューヨーク)の建設」の解説
レビット&サンズは、戦後の巨大な建築プロジェクトを実行する場所として、ニューヨーク・ロングアイランドのヘムステッド村付近の広大な土地の選択売買権(オプション)を格安で入手し、(第一次)「レヴィットタウン」と名付けた。 この、コミュニティー自体をつくるという仕事においてレヴィットが起こしたイノベーションは、「ベルトコンベアー」方式で家を作るということであった。 通常の組み立てラインでは、労働者が静止し、製品がラインを移動する。が、レビットの住宅建設では、製品(の家)は移動することができない。そこで、各工程を担当する作業グループを、家から家へ移動させた。プレハブ工法もやめ、事前に組み立ての出来る独自の方式を編み出した。当時登場したばかりの電動工具を使い、素人同然の大工でも作業ができた。重要な部分は事前に工場で作っておいた。また、もっとも手間と金のかかるアメリカ固有の文化「地下室」を廃止しスラブ工法にした。レビットの言い分:「古代ローマ人は地下室なんて作らなかった。あの偉大な古代ローマ人がだぞっ!」 また、「中間マージン」という概念自体を赦せなかったレヴィットは、完全子会社をいくつも作り、鉄のスクラップを大量に買い込んで釘を自前でつくり、セメントもつくり、オレゴン州の森林を買い、自前の製材工場で木材生産までした。 1948年7月には一週間で180戸、一日当たり36戸の家が完成していった。 ニューヨーク・タイムズに広告が載った。「復員兵のみなさん、アンクルサムと世界最大の建築業者が協力して、楽しいコミュニティーにチャーミングな家をご用意しました」ウンヌン。翌日、レヴィットのモデルハウスには群衆がつめかけた。人の数は日増しに増えていった。 1949年3月に申込み受付事務所がオープンすると、当日だけで1400件の契約が成立した。住民がニューヨークのレヴィットタウンに入居を始めたのは、その直後だった。 家は、57ドルという格安の月賦で、6995ドル~8000ドルで販売された。仮想客は若夫婦で、部屋数は5、敷地面積は18×30メートルで、家屋は総敷地面積の12%だったので、あとで必要に応じ建て増しができた。 この第一次レヴィットタウンには17000の家が並び、82000人が移住した。千戸ごとに一つのプールが造られ、学校は郡によって五つ建てられた。やがてキリスト教会もできた。 移住した男たちは自動車か電車に乗り、30km離れたマンハッタンまで通勤した。女たちは専業主婦になる場合が多く、一時期、アメリカでは、女性の社会進出の伸びがわずかに鈍った。住民たちはやがてレヴィッタウナーズ(レヴィットタウンの奴ら)として知られるようになる。
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