ラジオ中継との共栄
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「アメリカ合衆国のボクシング中継」の記事における「ラジオ中継との共栄」の解説
初のラジオ中継は1921年4月11日、ピッツバーグのモーター・スクエア・ガーデンでのライト級の試合、ジョニー・レイ対ジョニー・ダンディー戦で行われた。KDKA(英語版)による中継で、ボクシング記者のフローレント・ギブソンが会場から解説。ただしギブソンの声が直接聴取者に送られるのではなく、ギブソンが会場で見た内容を電話でハロルド・W・アーリンに伝え、アーリンがそれを放送で繰り返すというものだった。聴取者は少数で、試合の興行規模や送信方法は些細なものであったが、1920年代初期の米国ではスポーツの3大関心事といえばカレッジフットボールとワールドシリーズとボクシングであり、これがスポーツ初のラジオ中継となっている。ラジオ中継は1週間後に上映されるニュース映画に較べ、即時的なスポーツ報道を提供した。 同年7月2日にはジャック・デンプシー対ジョルジュ・カルパンティエ戦で初めて本格的なラジオ中継が行われた。プロモーターのテックス・リカード、ラジオプロモーターのJ・アンドリュー・ホワイト、マディソン・スクエア・ガーデン、RCA、全国アマチュア無線協会が連携し、音声は劇場やホールのスピーカーを通して推定20万人の聴取者に送られた。このタイトルマッチのためにリカードは数か月にわたって宣伝活動をし、ジャージーシティにスタジアムを建設。7万7000人からの入場料収入は150万ドルを超え、デンプシーとカルパンティエにはそれぞれ30万ドルと20万ドルの報酬に加え、ニュース映画からの収入が支払われた。映画プロデューサーのフレッド・クインビーがニュース映画のパイオニアであるジョージ・マクラウド・ベインズにカメラワークを担当させ、勢揃いしたカメラの中にはスローモーション用のカメラも1台含まれていた。15分の試合映像の他に練習風景、空撮映像、スタジアムや観衆の映像を盛り込んで上映された1時間のドキュメンタリーは、リカードの大写しで始まり、ニュージャージー州知事と一緒に会場を点検する映像が流れ、入場料収入、ボクサーのファイトマネー、政府の利益などの統計で幕を閉じる。ボクシング映像の配給を合法的な事業と見せる意図的な編集が行われ、試合映像を禁止した国家自身が試合による利益の一部を受け取っていることを観る者に印象付けるものとなっていた。 1920年代にはNBCのラジオネットワークをはじめとする多くのラジオ局がプロやアマチュアの試合の生中継を増やし、ボクシング中継はラジオ番組の重要な位置を占めるようになった。プロモーターは当初、無料での生中継によって有料入場者数が損なわれるのではないかと慎重であったが、ラジオの聴取者も会場の観衆も増加した。1926年9月にソルジャー・フィールドで行われたデンプシー対ジーン・タニー戦もリカードがプロモートし、10万人以上の観衆から250万ドルの入場料収入を上げ、ラジオの生中継の聴取者は数千万人に上った。1927年9月に行われたデンプシーとタニーの再戦では聴取者は5000万人と推定されている。
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