ラエ・サラモアの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 19:15 UTC 版)
「ニューギニアの戦い」の記事における「ラエ・サラモアの戦い」の解説
詳細は「ラエ・サラモアの戦い」を参照 サラモアにあった第51師団は本格戦闘可能な戦力は歩兵第66連隊のみ、補給・増援はほとんど期待できないという状況下であったが、6月にウイバリで積極的攻撃を行った。だが6月22日にウイバリの外郭のミネ高地を占領したところで限界に達した。6月30日にアメリカ軍第162連隊戦闘団がサラモア南方のナッソー湾へ上陸、サラモアへの圧迫を強めた。 日本軍は戦況の悪化に対応するために航空戦力の増強を図り、ジャワ島やチモール方面で活動していた第7飛行師団の主力をニューギニアに移動して、第6飛行師団と合わせて第4航空軍を新設した。第7飛行師団は7月下旬にウェワクやブーツ(ウェワクの西)に到着したが、第4航空軍が統帥を発動してから1週間後の8月17日~18日にウェワクやブーツは連合軍の大規模な空襲を受け、100機を超える航空機が損壊してその戦力は大きく減耗した。 9月、連合軍はラエの攻略へ向けて攻勢に出た。9月4日、北アフリカ戦線から戻ったオーストラリア軍第9師団がラエ東方のホポイに上陸、翌5日にはマッカーサー大将自らB-17に搭乗して督戦する中、ラエ北西20キロのナザブ平原にアメリカ軍第503空挺連隊とオーストラリア軍第7師団の一部が空挺降下した。ラエの守備兵力は、第41歩兵団長庄下亮一少将が率いる歩兵第238連隊の一部の他は、後方部隊や海軍部隊のみであった。サラモアの第51師団は退路を絶たれる危機に陥った。 第51師団はサラモアを脱出してラエへ後退、さらにラエからも撤退した。連合軍は9月11日にサラモアを、9月16日にラエを奪還した。日本軍の撤退は標高4,000メートルの峻険サラワケット山系を越える経路で行われ、飢えや寒さ、落石や転落によって多くの将兵が命を落とした。ラエ・サラモア地区に投入された2万の陸海軍兵力のうち、1万が戦死し、1,000名以上が山越えで命を落とした。フォン半島北岸のキアリにたどり着いた者は7,500名、その大半が傷つき疲れ果てた半病人であった(サラワケット越え)。
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